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2009年5月24日 - 2009年5月30日

2009年5月29日 (金)

…「アリ2世」と謳われたグレッグ・ペイジ氏〜逝く!…(携帯用)

 border=《「アリ2世」と謳われたグレッグ・ペイジ氏逝く!》《「アリ2世」と謳われたグレッグ・ペイジ氏逝く!》…第38代元・WBA世界ヘビー級王者のグレッグ・ペイジ氏がケンタッキー州のルイズビルの自宅で4月27日亡くなった。病院の死因発表はボクシングの試合に依って被ったダメージ悪化が原因と発表。〈享年50歳〉―――――――――――――――――…グレグ・ペイジは同郷出身のモハメド・アリに憧れて全米アマチュア・ゴールデングローブ大会に優勝して、プロボクサーになった。'79年2月16日、2回KO勝ちでデビューすると破竹の勢いで連勝していく。一方、モハメド・アリは'81年12月11日トレバー・バービック(カナダ)に10回判定負けしたこの試合で引退することとなった。入れ替わるように台頭して来た同郷出身のグレグ・ペイジに、アリの敵討ちとばかりに期待が掛かり一躍人気選手となる。'82年6月11日、アリに勝利したバービックにノンタイトル戦として挑むことになった。19勝(16KO)無敗と連勝街道を引っ提げて戦った。しかし、アリに勝って波に乗ったバービックに10回0対3の判定負け。初黒星を喫したのだった。…その後、4戦4勝(2KO)と連勝してタイトル戦を待っていた。〜'84年12月1日、WBC世界ヘビー級王者ゲリー・コーツィー(南アフリカ)に8回KO勝ちで念願の王座獲得。しかし、'85年4月26日初防衛戦でトニー・タッブス(米国)に15回0対3の判定負けで王座を陥落してしまう。その後、'86年1月17日、ジェームス・ダグラス(米国)に10回判定負け。'92年2月15日ドノバン・ラドック(カナダ=※上の写真)に8回TKO負け。'93年8月6日ブルース・セルダン(米国)に9回TKO負け。この試合によって頭部に重度のダメージを受けて約2年の療養を強いられた。次から次へと名のある選手と対戦したが報われなかった。世間ではもう引退したかと思われていたが、突然復帰する。'96年5月16日、ロバート・ジャクソン(米国)に1回TKO勝ちするとその後、16戦15勝(13KO)1分と完全復活した。〜が、それでも落とし穴が待ち受けていた。'98年10月23日モンテイ・バレット(米国)に10回判定負けしてからは、勝ったり負けたりで、タイトルのチャンスは巡って来なかった。そして、最後の「砦」の思いで、ケンタッキー州ヘビー級王座決定戦に挑む。2001年3月9日、対戦相手はロバート・クロウ(米国)。壮絶な打撃戦の末グレグ・ペイジは10回にKOされて昏睡状態になり緊急入院。生命は保たれたものの左半身不随になり、脳にも障害が残って車イスの生活を余儀なくされた。―――――――――――…日本では数試合ほどの映像が届いたが、それも殆どダイジェスト映像程度だったろうか。フルラウンドの放送を見たのは'85年のトニー・タッブス戦くらいだったろう。それでもモハメド・アリの後継者「アリ二世」として注目され期待されていたのをボクシング専門誌を読んで知ってはいた。僅か5カ月の短命王者だったが、度重なる不運にもめげず、諦めず再び駆け上がろうとしたグレッグ・ペイジ選手にボクシングファンとして感動したことを思い出す。そして、ある日のインタビューを受けての記事から〜「俺はどん底を散々味わって来たんだ!だから、又上を見てるんだよ!それしか今の俺にはないんだ!ボクシングに限らず、人間生きてりゃ皆一緒だろ!」…〈後記〉グレッグ・ペイジはボクシングに依って脳にダメージをうけて話す事も儘ならなかったが、ボクシングの話しには極端に反応し表情が変わったと云う。体の不自由を超えて最後まで戦い続けた。モハメド・アリを尊敬し憧れたボクシング人生に悔いはなかっただろう。…生涯戦績76戦58勝(48KO)17敗1分〜ここにグレッグ・ペイジ氏のご冥福をお祈りします。

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2009年5月28日 (木)

…内藤大助選手(宮田)辛勝!…5月26日・東京(ディファ有明)

《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》《内藤大助選手(宮田)辛勝!》

内藤大助対熊朝忠の試合は辛くも内藤選手が勝ったが今までの防衛戦の中で見栄えの悪い結果だった。〜1回、2回と序盤はそこそこの出だし。手数で内藤が上回る。〜3回から熊の左右フックが内藤をとらえる。〜4回、5回とバッティングを続けて熊の減点②点で、内藤は左右の目上を切る。〜6回熊の右フックが内藤の顎をとらえて、内藤崩れるようにダウン。〜8回熊の右フックで内藤ダウン寸前も辛くもしのぐ。〜10回今度は、熊も右目上を切り内藤減点①。〜11回熊の左右フック連打で内藤フラつく。〜12回内藤が力を振り絞って左右連打で攻めて、終了ゴング。…各ジヤッジ2、3、4、ポイント差の3対0で内藤選手が勝利したが、数字程の差は感じられなかった。熊選手の4回と5回の減点がなければ試合内容の印象が悪く、負けていたかも知れない。ホーム試合に救われたと言ったところ。次回は90日以内のポンサクレック・ウォンジョンカム(タイ)との指名試合が義務付けられた。内藤選手は技術的な修正と、両目上の傷の完治をもって戦わなければならなくなり窮地に立たされた格好。そのポンサクレックは4月24日WBCフライ級暫定王座決定戦で2位のフリオ・セサール・ミランダ(メキシコ)に3対0の圧倒的内容の試合で勝っている。この復活で勢いを蘇らせて挑んで来るポンサクレックは脅威になる。内藤選手との5度目の対戦は果たしてどうなるのか?…因みに、ポンサクレックの現在の戦績は76戦72勝(38KO)3敗1分である。

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2009年5月26日 (火)

…24年振りの快挙!西岡利晃選手(帝拳)…5月24日試合会場メキシコ(アリーナ・モンテレイ)

《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ《☆24年目の快挙!西岡利晃選手(帝拳)☆》5月24日試合会場メキシコ・モンテレイ

〈24年振りの快挙!〉日本人世界王者の海外防衛戦の勝利は過去に一例しかない。(それ以前は5人全てが敗者に!)'85年12月13日渡辺二郎(大阪帝拳)が韓国に渡って尹石煥選手(韓国)に5回KOで勝った一例のみで、それだけ海外での防衛は難しい。北米大陸メキシコにあってはアメリカと肩を並べる程のボクシング熱狂国。アウェーの極致である。しかも、指名試合で元WBOバンタム級王者、相手に不足はない。…試合会場は案の定、観客の熱気に沸いていた。…1回目、試合が開始されると序盤から挑戦者のゴンザレスが得意の左フックを振り回して来る。西岡が、それを避けようとすると、足が揃ったところに右ストレートを浴びてしまい尻もちダウン。しかし、西岡の表情は苦笑いをして効いていない様子で冷静だった。後半は左ストレートが当たり出す。2回目は1回のダウンで目が覚めたのかラッシュして来るゴンザレスの左フックに合わせて、まともに喰わない防御で相手の動きを見た。西岡はリズミカルになって行く。3回目、右ジャブで牽制しながら右へ右へと西岡が様子を見ながら仕掛ける。そして、1分過ぎゴンザレスが接近して左をだそうとした瞬間!西岡の伸びのある左ストレートがものの見事に顎(あご)を打ち抜いた。ゴンザレスは、くの字状態で下段のロープにも頭を打ち付け、もんどりうってダウン。意識朦朧(もうろう)とした中、元WBOバンタム級王者の意地でカウント8でなんとか立ち上がったが、足元がふらつきレフェリーが試合を止めた。3回1分20秒の逆転TKO勝ち。…西岡選手の頭の中では僅差判定での勝負は不利と見ていた筈である。試合前のインタビューでは「チャンスがあれば絶対倒しに行きますよ!それしかないです!」〜と試合前から断言していた。そして、将来語り継がれるであろう「帝拳ジム」の西岡利晃選手が歴史に残る快挙を成し遂げた。

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《★OPBF東洋太平洋S・ミドル級王者.清田祐三物語★》※ボクシング本「一拳一会」に執筆提供した「そして!〜釧路のサッカー少年は王者になった!」より題名を変えての配信!執筆者・海田イサヲ

《★OPBF東洋太平洋S・ミドル級王者.清田祐三物語★》※ボクシング本「一拳一会」に執筆提供した「そして!〜釧路のサッカー少年は王者になった!」より題名を変えての配信!執筆者・海田イサヲ
《★OPBF東洋太平洋S・ミドル級王者.清田祐三物語★》※ボクシング本「一拳一会」に執筆提供した「そして!〜釧路のサッカー少年は王者になった!」より題名を変えての配信!執筆者・海田イサヲ
《★OPBF東洋太平洋S・ミドル級王者.清田祐三物語★》※ボクシング本「一拳一会」に執筆提供した「そして!〜釧路のサッカー少年は王者になった!」より題名を変えての配信!執筆者・海田イサヲ
《★OPBF東洋太平洋S・ミドル級王者.清田祐三物語★》※ボクシング本「一拳一会」に執筆提供した「そして!〜釧路のサッカー少年は王者になった!」より題名を変えての配信!執筆者・海田イサヲ
《★OPBF東洋太平洋S・ミドル級王者.清田祐三物語★》※ボクシング本「一拳一会」に執筆提供した「そして!〜釧路のサッカー少年は王者になった!」より題名を変えての配信!執筆者・海田イサヲ

 

…清田祐三選手は、雄大な自然の大地、北海道釧路市の出身である。
父・清田眞二と敏子との間に1983年10月6日、男三人兄弟(兄〜英則・裕司)の末っ子として誕生した。
清田少年は小学校3年生からサッカーを始める。学校に行くと教室の席は一番後ろの方にいた。
当時から体格は大柄であった。大柄なわりには機敏さは人一倍あって目立つ存在だった。しかし、チームの監督は「機敏さはあるが長い時間走り切るのは体型的に見て無理だろう?」と見極めて、ゴールキーパーに抜擢したのだった。
「三度の飯」よりボールに触れる事が何によりも好きになって行く。小学校時代の清田少年はサッカーに勉強に勤(いそ)しむ、そんな毎日を過ごした。…中学校に入ると運動能力と技術が更に磨かれてゴールキーパー一筋になって行く。試合ではファインセーブを連発したこともある。何度となくチームを救った。そして、その役目を大いに発揮して信頼され支柱と言われる様になっていた。中学時代、その活躍に清田少年の名は「釧路に名キーパー清田あり!」とその名が釧路中に広まっていった。…1999年の春、道内複数の高校からの誘いがあったが、あえて自宅に近い地元の高校、釧路緑ヶ岡高等学校(現・武修館高校)へ入学することになる。当然のことながら清田は一年生からレギュラーのキーパーとして活躍していく。入学した頃のチームは道内でも強豪の位置にいたのだった。

しかし、二年生になったある頃から、試合も思うように勝てなくなってしまったのである。チームは大スランプに陥(おちい)り衰退し弱体チームへと変貌していった。それと同時に清田自身も試合へのモチベーションが薄れて行き、なんでもないところでゴールを許してしまう。「チクショー!どうしてなんだ!止められねぇ〜!」本人もスランプに陥ったのである。試合に勝てないことで好きで始めたサッカーに、自信を亡くし挫折を感じた。闘争心も気力も薄れ気持ちが萎(な)えていってしまう。一人の力ではどうすることも出来ない。そして、いつからか団体競技に自信をなくし疑問を感じるようにもなっていた。「俺はどうも団体競技にゃ向いてねぇ〜?」「どうせスポーツやるんなら個人でやる競技が向いてるのかな?」清田は日ごとにそんな思いに駆られて行く。
2000年、後半のその頃、世の青少年達の話題はもっぱら、あの「ガチンコ!TBS系」で持ち切りだった。前年、4月に始まったバラエティー番組は素人をプロボクサーに育てあげるというもので、またたく間に全国の人気番組になっていた。清田も当然のようにこの番組を見ていたのだった。そして、この番組がきっかけで気持ちも徐々に個人でやる格闘技に気持ちが傾いて行く。テレビを見ていたある日、「これだ!ボクシングだ!俺にはやっぱり個人でやる競技が合ってるんだ!」〜ボクシングか?キックボクシングか?K1にも興味があった。どっちにしても、殴り合い蹴り合いの競技なのだ。
清田は「思いだけじゃ始まらない!取りあえずボクシングジムに行くしかないか?」高校二年生の後半には、もうすっかりサッカーのやる気も薄らいで辞める気でいた。清田はある日、タイミングよくジムに入りたいと云う友達に誘われて、電話帳で探しだした。「清田!あった、あった釧路にもあるよ!ここに決めようや!近くていい!」と友達が探し当てた。
早速、二人でフラッシュ熊坂ジム(現フラッシュくしろボクシングジム・熊坂直希会長)の門をくぐるのである。練習生として入門すると最初は戸惑いもあったが、サンドバックを打ち込んでいくうちに馴染んでいった。その爽快感は今までに経験した事がないものだった。そして、練習に没頭する毎日が始まった。しかし、ジム入門に誘ってくれた友達は二週間程して辞めていってしまう。それでも自分は面白さに芽生えて続けることにしたのだった。…それから、月日が経って、3年生になっていた。高校ではすでに大学進学や就職の進路活動が始まっている。清田は就職を選んだのである。ジム通いも一時中止して就職活動に専念する。そんな生活をしているうちにも、2002年3月無事に高校を卒業することが出来た。しかし、就職活動は上手く進まなかったのだった。予想外の結果に途方にくれた。それなら好きな道でとも思うのだったが、高校を出て直ぐに「格闘技」で身を立てられるような、そんな甘い世界ではないのである。まだ就職先も決まらず18歳の清田には不安と焦りもあった。ある日、久しぶりにジムに行き、練習を再開する。そして、熊坂直希会長にこれからの進路を相談するのだった。
「いいか!清田!これから本格的にプロとして格闘技の道に進むんだったら、今のレベルじゃ無理だ?もっと打撃練習を積むんだ!それしかないぞ!」清田は会長の話しを真剣に聞いていた。「どうだ!この前、東京から来ていた、あの会長の所でやってみる気はないか?うちから行った能登先輩もいるし、アルバイトも探してくれる。それが一番いいんじゃないか?」「俺もあそこでプロボクサーとしてやってたんだから間違いない。会長もトレーナーも面倒見いいぞ!そうしろよ!」と会長が促すように言った。
フラッシュ熊坂ジムは会長が東京のフラッシュ赤羽ジムに所属していたことから提携の意味もあって、許可を貰って「フラッシュ」のジム名を付けたのだった。会長が帰郷して開設したジムはアマチュアのボクシングジムの為にそうするしかなかった。清田は熊坂会長が現役時代に所属していた事と先輩がいるジムだと云う事で安心感もあった。迷うことなく二つ返事で「ハイッ!東京に行きます!」と決断したのだった。
そうして熊坂会長が東京のフラッシュ赤羽ジムに連絡を取り、予(あらかじ)め事情を話してくれていた。親身になって段取りをしてくれた熊坂会長は故郷の恩人である。…2002年4月に上京すると早速、北区赤羽駅の近くにあるフラッシュ赤羽ジム(川島勝会長)に入門し練習生としてスタートを切った。取りあえずトレーナーの紹介でアルバイトの警備員やガソリンスタンドの仕事も見つけて収入源も住まいも確保した。しかし、入門当初のこの時期、本人はあくまでもキックボクシングかK1系列の総合格闘技への進出を頭に描いていたのだった。
それを釧路の熊坂氏から聞いて知っていた川島会長は「取りあえずボクシングだ!ボクシングをやれ!」だった。川島会長はそれ以上の事はなにも云はなかった。
アルバイトを終えて二ヶ月、三ヶ月と練習を積んで行く。それから更に数ヶ月が経って、先輩達の試合出場の機会も増えて来た。「へぇ〜!ここがあのテレビに出ていたボクシングの殿堂か〜!すげぇ〜な!」と清田はワクワクした気持ちになった。
後楽園ホールへも応援に行くようになり、次第にボクシングの素晴らしさと、その魅力も分かってきたのだった。
東京に住んでいると年末には格闘技のテレビ放送が目白押しなのだ。K1や系列の異種格闘技や、その他の総合格闘技の中継が否応なしにも目に入る。少々のルールはあるが、ある面何でもありのこの世界である。そんな厳しい試合を見たのだろうか?しかし、清田は釧路時代に会長から「お前は寝技体型だ!」と云われて鵜呑みにして、その気にもなっていた。総合格闘技のジムにも体験入門している。月日が経ったある日「あんなに蹴飛ばしたり体を密着したり股間が顔に来てさ〜あんな寝技なんて無理だな!俺にはやっぱ合わネェ〜や!」といつの日からか、ジム仲間にも漏らしていた。
総合格闘技は諦めたものの、それでも少しはキックボクシングとK1には未練があったのだ。しかし、ジム会長の「とりあえずボクシングだ!」の命令が月日とともに考え直しボクシング一本に絞ったのである。…そして、’02年9月プロテストに合格した。結果的にはこれで良かったのだった。

清田はプロボクサーの選手としてスタートラインに立つことになった。’02年11月21日後楽園HL。念願のプロデビューはミドル級での試合である。島田健志(CQワタナベ)との試合に3R2分19秒TKOで見事勝利した。その後、新人王予選へ出場して順調に勝ち進む。03年11月12日、後楽園HL。東日本新人王戦ミドル級決定戦で木村文人(新日本木村)に2R2分18秒KO勝ち。ここでも見事に勝って東日本ミドル級新人王になった。5戦5勝(5KO)無敗を引っ提げて全日本新人王戦へと駒を進めた。

’03年12月21日、後楽園HL。各階級の決定戦である。そして、いよいよ全日本ミドル級新人王決定戦!会場は超満員で熱気に包まれていた。西日本の新人王は江口啓二選手(姫路木下)である。この選手は高校時代に相撲をやっていてインターハイなどに出場した異色の選手だった。背はさほどないが相撲で鍛えた体はガッシリとしている。関西では人気上昇中の選手だった。
試合は1R序盤から打ち合いになりどちらも譲らず。4Rまで両者一進一退の試合運び。
しかし、5Rから清田のパンチが江口を上回る。最終6R中盤には清田がワンツーストレートから左右フックで江口をグラつかせてポイントになりそうな見せ場をつくった。その場面にホールが沸き返った。試合が終了した。ざわめきの中で判定のアナウンス発表が響きわたる。清田選手を応援する周りのファンや関係者には緊張の瞬間だった。
「3対0をもちましてぇ〜!勝者〜!赤コーナー東軍の清田祐三選手!」三者三様僅か1ポイント差で3対0の判定勝ちだった。東軍の赤コーナーに会長やトレーナー後援者が肩を叩き合い勝利に酔いしれた。会場も沸き返っていた。フラッシュ赤羽ジムはこれ以前に東日本新人王に決勝まで二人が残ったが共に敗れていた。ジム創設以来8年目にして初めての全日本新人王の誕生であった。そして、この日は一生忘れられない一日となった。

〈慕っていた先輩の死!〉
’04年4月2日、新人王になって4ヶが過ぎていた。清田選手にとっては、哀しいもう一つの一生忘れられない日になってしまう。同郷の出身で先輩ボクサーの能登斉尚選手が試合の後遺症で亡くなったのである。
’04年3月15日後楽園HL。スーパー・バンタム級10回戦。鮎川圭祐選手(オークラ)との試合。中盤に差し掛かる4Rと5Rに能登選手がダウンを奪っていたが、後半に鮎川選手の巻き返しで壮絶な打撃戦の試合展開になり、最終までもつれた一戦だった。結果は0対2で能登選手の判定負けの試合だった。その日はたいした症状ではなかったと云う。ところが、18日後、頭部の症状が急変して北区の病院に運ばれて亡くなったのである。死因は硬膜下血腫、まだ24歳の若さであった。ボクサーの先輩として心身共にアドバイスし支えてくれた先輩がいなくなって、憔悴しきった。屈強な男とて人間の死に直面して、仕方のない事だった。恐らくは身体から力が抜けていく思いであったに違いなかった。そんな心境で練習など手に付くはずがないのだった。そして、数週間は気が重く心身共に滅入ってしまっていた。信じられない日々が続いた。しかし、その現実を認めるしかなかった。アルバイトの仕事をしながら気を紛らわした。それからジムに行って練習するが気が入らない。その後、日を重ねてなんとか気を取り戻し本格的に練習を再開する。ジムには試合のオフアーも来ていた。
清田選手「いつまで経っても、くよくよしてちゃあ〜能登先輩に天国から叱られる!」そんな思いが沸いてきた。能登先輩と心の中で一緒に試合をする思いを募らせるのだった。リングに上がる時は先輩の遺品を身に付けて上がることにした。心の中の能登先輩の為に!
それから三ヶ月後の’04年7月13日、後楽園HL。
「能登斉尚選手追悼試合」が組まれた。相手は真木和雄選手(倉敷守安)8戦5勝(4KO)2敗1分で試合数は少ないがハードパンチャーである。ミドル級のこのクラスでは決して侮れないのだ。先輩の追悼試合と云う事でプレッシャーも掛かった。そしてメイン試合の前に、追悼のテン・カウントのゴングがホールに響き渡った。観客も神妙に聞きいる。ゴングが止むとリング上では川島会長が追悼の慰を述べた。
それが済んでいよいよメインである清田選手の試合のゴングが鳴らされた。
1Rから清田が左ジャブから右ストレートを繰り出し面白いようにヒットさせる。2Rは真木も応戦して前に出るが清田がパンチを変わす。3Rお互い左右フックの打ち合いで清田がそれを上回る。2分過ぎ猛ラッシュで左右フックの連打でレフェリーがストップした。3R2分24秒のTKO勝ちを収めた。これで能登先輩の追悼試合に報いることが出来た。「フゥーッ!」と息を吐きなが清田選手は後楽園ホールの天井を見上げた。

それから順調に数試合をこなし連勝して行く。
〈初黒星〉
’05年7月7日後楽園HL。8回戦〜10戦10勝(8KO)と無敗のまま迎えたこの日、周りの期待は清田選手が早い回で倒すのではないかと予想していた。相手はノーランカーの氏家福太郎選手(新日本木村)である。1Rからゆっくりした様子見の出だし。清田選手の動きがいまひとつで大振りが目立ってしまう。お互い噛み合わず。2Rお互い単発で決定打はないが!後半やっとお互いエンジンがかかった展開に!3R逆に氏家が小刻みなショートパンチを出してポイントを取る。こんな展開でズルズルと進む。5R清田が前に出て左右フックを繰り出し劣勢を取り戻しかけ強打があたり始めるも氏家がかわす格好。後半追い上げたが結局、清田のこれといった見せ場のないままペースを掴めないまま8R終了した。今までにないタイプの選手だった。パンチ力は無いが小刻みに打って動きでかわされる。それにしても、清田選手は今までにない鈍いフットワークだったのだ。後で分かったが原因は減量苦からだった。一人のジャッジは引き分けだったが、0対2の判定負け。初黒星だった。控室でトレーナーの誰かが言った。「減量面とメンタル面をもっと考えないとぜんぜんダメだな!」清田選手も周りも落胆していた。

’06年3月7日、後楽園HL。清田選手は8ヶ月も試合から遠ざかっていた。前回初黒星を喫しての復活の意味もある。以前対戦する予定だったがやっと実現した。対戦相手の保住直孝選手(ヨネクラ)はミドル級の元日本王者で元OPBF東洋太平洋王者でもある。'02年にはWBA世界ミドル級王者ウィリアム・ジョッピーとの世界戦も経験している絶好の対戦相手なのだ。勝てば相当の自信になる。
1Rからお互い打って出る。左右フックとストレートの出しあいでどちらも引かない。2R保住がクリンチを使い清田の強打をさける。清田が攻めるとまたクリンチされる。3R清田が距離を取って右ストレートアッパーをヒットさせる。保住の右まぶた腫れる。4R清田がアウトボクシングに徹して左ジャブ右ストレートを打ち込む。5R保住がクリンチを使いショートパンチを繰り出す。6R同じように保住が体を寄せて清田に打たせない。7R保住の頭があたり清田の右目が腫れる。最終8R保住の怒涛の反撃も清田が上手くかわす。そして、試合終了。判定は1ー1の引き分け。清田選手はこの試合を勝ち取りたかったが保住選手の試合運びの巧さに届かなかった。
その後の清田選手の戦歴’06年7月18日後楽園HL。10回戦トーピアン・ロムポン(タイ)☆KO(3R)勝ち。’06年9月27日後楽園HL。8回戦、厳正植(韓国)☆TKO(7R)勝ち。’06年12月7日後楽園HL。8回戦・鈴木典史(ピストン堀口)0ー3★判定負け。清田選手はこの日、屈辱の3度のダウンも経験し2敗目を喫してしまった。’07年9月12日後楽園HL。10回戦チョークチャナ・スーンギラー・ノーイナイ(タイ)☆TKO(2R)勝ち。
’07年12月21日後楽園HL。10回戦・森広和義(広島三栄)☆KO(2R)勝ち。
その後、専任トレーナーの西村が云った「清田!もうミドル級じゃきついだろう?一つ上で行こう。その方が減量楽になる」今までの減量苦に少しは楽になったのである。
そして、西村トレーナーの助言通り一つ上の階級スーパー・ミドル級で戦うこととなった。’08年4月26日後楽園HL。12回戦・OPBF東洋太平洋スーパー・ミドル級暫定王座決定戦。ズルフィカル・ジョイ・アリ(フィジー)☆TKO(7R)勝ち〜見事な初栄冠。清田選手にとって待ちに待った初のタイトル獲得となった。フラッシュ赤羽ジムにとってもジム創設13年目にして初の王者誕生である。
しかし、あくまでも暫定的王者である事に清田選手は深い達成感はなかった。試合そのものも噛み合わずポイントはリードしていたものの相手の棄権による勝利に満足は出来なかったのだ。元々、この日は正規王者との対戦予定だった。王者の怪我によって、来日延期になり急遽暫定王座決定戦が設けられた試合だった。
清田選手は勝利者インタビューに「絶対!(暫定)の二文字を取り払います!その為に精進します!」と力強く答えた。
〈念願の大一番!〉
’08年10月13日後楽園HL。OPBF東洋太平洋スーパー・ミドル級王座統一戦。12回戦(正規王者)ウェイン・パーカー・ジュニア(豪)
後楽園ホールは超満員に膨れ上がった。控室の清田選手は体を動かしながらモチベーションを高めるのだった。本人は至って冷静に見える。かえって支える方の会長やトレーナーが緊張感を漂わせていた。北海道の地元釧路からは家族、親戚、友人、地元の後援会も応援にかけつけている。そう云う意味で絶対負けられない心境だった。刻々と試合時間が迫って来る。
そして、トレーナーがテレビモニターを見て言った。「よ〜し!そろそろだ!気合い入れていくぞ!」と号令をかける。清田選手はグローブをバシッ!と叩きながら椅子から腰を上げた。トランクスの後ろには(NOTO魂!)と縫い込まれている。あの先輩の名前だった。会場に通じる薄暗い階段を上って待機する場所に移動する。トレーナー相手に体を動かしながらコールを待つ。カーンカーン!とゴングが鳴った。…「両選手リングに入場です!はじめに赤コーナーより暫定チャンピオン・清田祐三選手入場です!」リングアナの入場コールと入場曲「ソーラン節」が響き渡る。応援団の幟(のぼり)をかき分けるように入場する。リングに上がって体をほぐしながら正規王者の入場を待つ。
そして、レゲェー調の曲がかかった。「続きまして〜青コーナーよりチャンピオン!ウェイン・パーカー・ジュニア選手入場です!」リングに両者がそろった。リングアナの選手紹介がすんだ。リング中央へレフェリーから注意を受けてコーナーへ戻る。
試合開始のゴングが打ち鳴らされた。〜1R試合開始早々から清田の左ジャブからワンツーと面白いようにヒットする。パーカーも時折左ジャブからワンツーと出すが単発で効果が無い。清田が左でフェイントしておいてダブルの右ストレートの強打を打ち込むパーカーはたまらず清田の足元に崩れ落ちるようにダウン。
(1R2分35秒)パーカー立ち上がりると清田がコーナーに追い詰め左右フック連打でまたパーカー、ダウン寸前になるがゴングに救われた。2R清田は序盤からボディー連打左右フックがヒットする。パーカーも時折左ジャブから右ストレートを出すが単発。パーカーがロープを背負ったところでまた清田の強烈な左右フックの連打でパーカーのマウスピースが飛んだ。清田左右フックの連打でパーカー防戦一方。途中パーカーのマウスピースを噛ませる為に中断。再開すると清田はパーカーを左右フックで青コーナーに追い詰めダブルのボディーブローから左フック右ストレートの怒涛の連打を浴びせたところでレフェリーがストップした。それと同時に、会場は歓声に沸き返った。
2R1分37秒TKO勝利で清田選手が正規王者になると同時に初防衛となった。勝った瞬間!ロープにかけ上がり何度も「ウォーツ!ウォーツ!」と雄叫びをあげた。負けていれば何を云われるか判らないこの世界。達成感もあって、一気に気持ちが爆発したのだった。勝利者インタビューでは「本日は忙しい中、応援に来て頂いてありがとうございます。これからもっともっとこのベルトの価値を高めて、上を目指します!」好きだったサッカーを捨て格闘技に目覚めて8年目。高校時代から夢みていたことが叶った。
そして、“釧路のサッカー少年は王者になった”家族や友人、ジム関係者、ファンには目に焼き付く素晴らしい試合であった。
〈後記〉
清田祐三選手に会うと、決まって笑顔で挨拶してくる。野武士の様な厳(いか)つい風貌に似合わず、今どきにして礼儀正しい青年である。日本人はこうでなければと思わせる。驕(おご)らず、高ぶらず。そんな選手である。
そして、それを貫き通して欲しいと思う。リングに上がれば豹変する、それでいいと思う。彼にはそれが一番似合う筈だから。今想うとプロボクサーになって色々あった。同郷の先輩ボクサーの死!そして、スランプや迷い!そんな思いも厳しい練習で払拭して来た。全てリングに上がる為だけに!東洋太平洋の頂点に立ったが、今度は目標にされる側に来た。
そして、また次の険しい山が立ちはだかる。
目指す先はただ一つ、それは世界の頂点のみだけである。

2009年1月現在の清田祐三選手の戦歴・戦績・位置、アマチュア経験はなし。'02年11月21日プロデビュー。OPBF東洋太平洋スーパー・ミドル級王者・WBC31位。戦績・19戦16勝(14KO)2敗1分。


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