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2009年8月30日 - 2009年9月5日

2009年9月 3日 (木)

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1
☆「ロッキー・マルシアーノ」はイタリア系アメリカ人のボクシング世界ヘビー級王者。
(本名=ロッコ・フランシス・マルケジャーノ)

☆ロッキーと言えば、米国俳優シルベスター・スタローン主演映画『ロッキー』の題材になったことで有名である。
同じイタリア系アメリカ人であるスタローンがまだ無名だった頃、1975年モハメド・アリ対チヤック・ウェプナーの試合を観て感動しロッキー・マルシアーノと重ね合わせて、スタローン自ら脚本を書き上げたと言われる。
この映画のスタローン扮するロッキー・バルボア役はモハメド・アリに15R逆転KO負けしたチヤック・ウェプナーをロッキー・マルシアーノに見立てて脚本を書いた。
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… イタリアからの移民者であるマルシアーノの父親は小さいながらも細々と靴店を営む腕のいい職人であった。そんな家庭の両親のもと1923年9月1日マサチューセッツ州ブロックトンに、長男として誕生する。
幼少時代の呼び名は「ロッコ」のニックネームで通った。この頃は野球が好きで、学校から帰ると街の仲間達と野球に没頭する毎日。将来はプロ野球選手になることを夢見ていたのであった。
マルシアーノが小学生になった頃は、世界大恐慌の時代。そのあおりで父親の店も、ままならず生活も苦しく、父親は製靴工場へと働きに出た。
おまけに次々と兄弟が誕生する。そして、16歳の時には高校も休学して家族を助ける為に、父親の働く同じ製靴工場に働きに出たと云われる。
最終的には男4人女2人の6人兄弟となる大家族であった。そして、高校を中退して兵役に従事することになった。
その頃は、第二次世界大戦の終戦を迎えようとしていた時期、イギリスへの従軍を余儀なくされた。その従軍先の時代に、連合国のオーストラリア軍兵士との喧嘩をきっかけに、アマチュアボクシングを始めたのだった。3年後に兵役を除隊すると、皿洗いから始まり、倉庫の荷出しや、ガス会社配管工などありとあらゆる仕事を転々と重ねていく。
そして、その頃、プロ野球選手になる夢もあってシカゴ・カブスのファームへのトライアウトも3年間経験したが、結局閉ざされてしまう。
それと並行してアマチュアボクシングの(全米ゴールデン・グローブ大会)にも出場して33戦30勝3敗の戦績を残している。この頃、全米のオリンピック代表を選出するトーナメントに出場したが、いがいにも予選1回戦で敗退したことは、あまり知られていない。

…プロ野球選手を諦めて、再び街工場で働きだした頃のある日、ふとした仲間の喧嘩に巻き込まれて仲間を助けようと喧嘩の発端者を殴ってしまい気絶させてしまう。その相手はマサチューセッツ州の元アマチュアボクシングチャンピオンだったのだ。この時から仲間にプロボクサーになることを勧められ、一時は諦めていたボクシングに改めて目覚めて行く。
そして、プロボクサーを目指す気持ちも強くなっていき、仕事をしながら街のジムにも通い出すのだった。時には町工場の片隅で開かれる駆け出し無名ボクサー達による賞金付きボクシング大会(Semipro)にも出場して、小銭を稼ぎながら技術を磨いていった。 また、この頃は、兄弟達の学費も稼がなくてはならない役目も背負っていた。

マルシアーノはその頃、米国民の英雄的存在(1938年対ドイツ人世界ヘビー級王者マックス・シュメリングとの名勝負)だったジョー・ルイスの試合を見て「〜俺もああ云う選手にならなければ、ボクシングをやる意味がない!」と憧れとともに自らを奮い立たせていった。
23歳になっての遅いプロデビューは、プロ野球のトライアウトに熱中していたことや、家庭の事情で仕方のないことだった。
…1947年3月17日、マルシアーノのプロデビュー戦は現在のL・ヘビー級(79、38kg)クラスの体重しかなく対戦時にあえて体重増量に励んだが80kgそこそこだったとされる。
(注)【※現在の規定、ヘビー級90、7kg以上は体重が違っていても試合は認定されるが、それ以外はクラスの規定範囲内の体重でなければ試合は認定されない。又は契約体重にしてその範囲内で行う】
マルシアーノとしては、一番重いクラスで戦いたかったのだったが、相手は3kg以上も差があったとされている。それでも、リー・エファーソンをアッサリと3回でのKO勝ち。幸先よいスタートとなった。

【当時は、階級はあっても厳密な規定はなく両者陣営で承諾すれば試合は成立した!】
マルシアーノがデビュー戦に勝ったのは当然と言えた。高校時代に野球とアメフトで体を鍛え上げ、そのうえアマチュアで33戦して、セミプロでも10数戦の経験があったからだった。その後、プロでも充分活躍出来ると見ていたトレーナーに就いたチャーリー・ゴールドマンから本名が長すぎると云うことを指摘された。リングネームは最初に「ロッキー・マック」と付けられて、「ロッキー」は納得したが、「マック」と云う名に馴染めず。次にゴールドマンが「マルケジャーノだからマルシアーノではどうだ?」と問うと納得したのだった。結局「ロッキー・マルシアーノ」と改名したのである。
その後、トレーナーのチャーリー・ゴールドマンが雑誌インタビューで「リングネームはスペルのロッコが似ていることで、雄大なロッキー山脈のように大きく育つようにと付けたんだ!」と説明している。
当時、既にデビューして人気のあったミドル級のロッキー・グラジアーノ(同じイタリア系アメリカ人)の「引用では?」の問いに「いや、それは全く関係ない!たまたまロッキーがもう一人いたと云うことだ!決して真似た訳ではない!グラジアーノや関係者にも説明して了解して貰った!」と説明している。
※(同じロッキーでもマルシアーノは雄大なロッキー山脈で、グラジアーノは石の拳とリングネームの意味を区別している)

マルシアーノはその後、連戦連勝を重ねて5年の歳月が流れ28歳になっていた。階級も一番重いヘビー級に落ち着いていたが、当時でも体格は180cm・83kgと小さく、殆どの対戦相手がこれを上回っていた。
しかしながら、並み居る大男達を薙ぎ倒し37連勝(32KO)無敗と負け知らずである。
やがて、米国中の評判になり人気上昇中だったマルシアーノにマッチメーカーやプロモーターから白羽の矢が向けらた。
〜そして、大一番の話しが舞い込んだのだった。尊敬と憧れでもあったジョー・ルイスからの対戦オファーである。マルシアーノは驚きと戸惑いを覚えて考え込んだ。

…ジョー・ルイスはこの時、既に25回の防衛を重ねて年齢も37歳となっていた。1948年6月25日ジャーシー・ジョー・ウォルコットと対戦して25回目の防衛を果たすと王座を返上して引退していた。しかし、その後ルイスは借金を背負ったことで復帰して王座返り咲きを狙う。
1950年、当時ルイスが返上して空位となったNBAヘビー級王座を獲得したイザード・チャールズに挑戦したのだったが、以前のように体が動かず、15回判定負けして返り咲きならず、無冠となっていた。

当初、マルシアーノはこの対戦に前向きではなかったと言う。願ってもないオファーにマネージャーのジミー・オキーフやトレーナーのチャリー・ゴールドマンが説得したのだった。
考え直したマルシアーノは尊敬するジョー・ルイスであっても、お互いプロである以上オファーを蹴る訳にはいかなかったのだ。
心の中で「尊敬」が邪魔をしていただけで、このチャンスを断る理由もなかった。ましてや、イタリア移民の子として世間には蔑(さげす)みの目で見られ、差別も受けていたことで決心した。「俺にはイタリアの血が流れている。移民者の為にも、もう逃げる訳にはいかない。今しかないんだ!」と云う思いを肩に背負う。マルシアーノは感動するいい試合をして観客に米国民として認めて貰うと云う思いがあったのだ。

…それから数日後にマルシアーノは対戦契約書にサインをした。書面には『王座挑戦決定10回戦。勝利者が王座挑戦の権利獲得!』と記されていた。

…1951年10月26日、ついにその日がやって来た。ジョー・ルイス対ロッキー・マルシアーノのチケットはノンタイトル戦にもかかわらず、飛ぶように売れてダフ屋も出没して、あっと云う間に売切れた。
そして、ニューヨーク・マディソンスクェアガーデンの会場は超満員に膨れ上がったのだった。


―――――其の2に続く

【Estate of Rocky Marciano〜より参照】

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2009年9月 1日 (火)

…日本S・フライ級王者・中広大悟(広島三栄)対(同級7位)本田秀伸(グリーンツダ)…8月29日(会場)広島三次市カルチャーセンター

…日本S・フライ級王者・中広大悟(広島三栄)対(同級7位)本田秀伸(グリーンツダ)…8月29日(会場)広島三次市カルチャーセンター…日本S・フライ級王者・中広大悟(広島三栄)対(同級7位)本田秀伸(グリーンツダ)…8月29日(会場)広島三次市カルチャーセンター…日本S・フライ級王者・中広大悟(広島三栄)対(同級7位)本田秀伸(グリーンツダ)…8月29日(会場)広島三次市カルチャーセンター ☆当初、対戦相手がなかなか決まらず途方にくれていた日本S・フライ級王者の中広選手だったが、ベテランの本田選手が名乗り出たことで解決した。

試合会場は出身地の地元での凱旋試合と云うこととなった。

挑戦者の本田選手は9月に34歳となる大ベテランで試合数も38戦目。もうとっくに峠を過ぎた選手と見られがちだが戦歴は凄いのだ。
'02年11月6日、WBC世界フライ級王者ポンサクレック・クラティンデーンジム(タイ)と対戦して12回判定負けしたが本田選手の防御面では称賛された。
'03年10月4日、WBA世界S・フライ級王者のアレクサンドル・ムニョス(ベネズエラ)との対戦はデビュー以来23連勝中のKOキングと言われたムニョスに12回判定負けしたものの連続KOをストップさせた防御技量はやはり絶賛された。その後'06年10月29日、後のWBA世界フライ王者になる前の名城信男(六島)とも対戦している。この試合も10回判定負けしているがやはり名城選手が思うようにいかず8回の本田選手の猛攻には名城も苦戦した。この試合の勝利によって名城選手は世界ランク入りとなった。
いずれも負け試合ではあるが中広選手にとっては、いいお手本試合である。

…試合が始まると、初回にいきなり中広の右ストレートが本田の顔面にヒットしてダウンを奪う。しかし、この勢いのまま早い回で終るかに思われたが本田は持ち直した。
中盤に入って本田の持ち前のアウトボクシングに中広がてこずった。

見せ場は7回中広の右フックがヒットして本田が劣勢に。8回には右ボディーを打ち込み中広がポイントを上げた。

結局、本田選手の粘り強い試合運びもあって10回まで戦う展開になった。判定は(97対93)(96対95)1人のジャツジが(95対95)と分けての2対0と言う試合内容だった。中広選手にとっては2度目の防衛となったが本田選手の得意な防御にてこずる試合だった。中広選手の勝利インタビューでは「こんな勝ち方では、世界はまだまだ無理です!」との応えだった。
〈後記〉私は中広選手の試合を後楽園ホールで観ているがまだ伸びしろはあるように見えた。ただプロとして派手さがない分で見劣りするが練習次第で技術アップすればもっと素晴らしい選手に育つ筈。今後の試合に期待したい。

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…石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!…8月30日(会場)大阪府立体育会館第1競技場

…石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!…
…石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!……石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!……石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!…
☆ WBA世界S・ウェルター級暫定王座決定戦が何故?4位と5位で行うのかに疑問が上がったが、ことの発端は王者のダニエル・サントス(プエルトリコ)が怪我を理由に1年以上も試合を行っていないことから暫定王座を設けることとなった。そして更に1位〜3位までの選手が決定戦に出場拒否をしたために石田順裕選手とマルコ・アベンダーニョにチャンスが巡って来たと云うことだ。

このクラス日本人にとっては重量級になる。過去世界王者は三原正(三迫)、輪島功一(三迫)、工藤政志(熊谷)と3人がいる。
…試合は石田が序盤から左ジャブでリードして流れをつくった。中盤から後半にかけても終始リード。アベンダーニョは手数では上回ったが大振りで空振りが目立った。石田は手数は少なかったが左ジャブが冴えて有効打も多かった。そして、12回を戦い抜き6、8、10ポイント差3対0の判定勝ちで見事に暫定王座を獲得した。34歳の王座獲得は史上2位の高齢だった。

☆ セミファイナルのWBA世界フライ級11位・亀田大毅(亀田)はホセ・アルベルト・クアドロス(メキシコ)と対戦して左右フックの連打で畳み掛けて4回30秒のKO勝ち。

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2009年8月31日 (月)

…WBC世界フライ級暫定王者ポンサクレック強し!…8月28日(会場)タイ・チェンマイ

…WBC世界フライ級暫定王者ポンサクレック強し!…8月28日(会場)タイ・チェンマイ
…WBC世界フライ級暫定王者ポンサクレック強し!…8月28日(会場)タイ・チェンマイ…WBC世界フライ級暫定王者ポンサクレック強し!…8月28日(会場)タイ・チェンマイ…WBC世界フライ級暫定王者ポンサクレック強し!…8月28日(会場)タイ・チェンマイ

 8月28日、タイ・チェンマイでWBC世界フライ級暫定王者のポンサクレック・クラティンデーンジムは升田貴久(三迫)と対戦して統一戦に向けて強さをアピールするTKO勝ち。

…升田選手は、急遽対戦が決定してのタイでのアウェー試合は酷だったか。試合が始まると2回にポンサクレックの左ストレートを貰ってダウン。その後なんとか持ち直したが6回に右ボディーから右アッパーカットを連打されてレフェリーストップ。6回1分06秒のTKO負けに終わった。勝ったポンサクレックは内藤大助対亀田興毅との勝者で統一戦が義務付けられている。

 ポンサクレックは一時期引退していたが'09年4月24日WBCフライ級暫定王座決定戦で同級2位のフリオ・セサール・ミランダ(メキシコ)と対戦して12回3対0の判定勝ちで復帰した。

 果たして、ポンサクレックとの統一戦は内藤選手なのか亀田選手なのか?どちらにしても面白くなって来た。

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