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2010年1月24日 (日)

《後楽園ホールに河童がいた頃!》

《後楽園ホールに河童がいた頃!》
《後楽園ホールに河童がいた頃!》
☆その昔、後楽園ホールに河童が現れたのだった。「ウッヒャ〜ッ!カッパだ〜ッ!カッパ〜ッ!」と観客が騒ぐ。
…時は1963年(昭和38)〜1964年のその頃ホールに時々現れた。
観衆は度肝を抜かされ、数秒間経つと失笑から大爆笑に変わっていった。
その正体とは、ボクサーの「河童の清作」こと斉藤清作で、頭のてっぺんを剃り上げて登場して来るのだった。第13代日本フライ級王者である。
この突飛なパフォーマンスの主は、のちの“タ〜ッコで〜す”の「たこ八郎」であった。
もうこの頃からコメディアンの素質は十分にあったのだろうか?

しかし、これには一つの理由があったと言う。
彼は小学生の頃に泥んこ遊びで友達が投げた泥んこが左目にあたり、殆ど視力をなくしていたのである。
その河童頭にした理由は人を笑わせると云うよりも、頭のてっぺんを丸く剃って、対戦相手の気をそらせ惑わす為の心理作戦だったと後に語っていた。

では何故?目が悪くてプロボクサーになれたのかと云うとプロテストの視力検査の時に、前以て視力表を丸暗記してパスしたのだと云う。
しかし、元々斉藤清作は宮城県(私立)仙台育英高校のボクシング部2年生時に県大会優勝の経験を持ち、技術的にはボクサーとしての体は出来上がっていたのである。

すなわち、高校時代のボクシング部でも左目の不自由を隠し通したことになる。
卒業すると上京して職を転々としながら過ごす。
〜ある日、仕事中(映画館のフィルム配達)にたまたま通りかかった際に笹崎ジムが目に飛び込んで来て、入門することにしたと云う。

その笹崎ジムには、後に2階級制覇世界王者となるファイティング原田もいた。
斉藤清作は入門すると、昔取った杵柄で難無くプロデビュー出来た。その後はめきめきと力を付けて、東日本新人王戦に出場することになって、準決勝まで勝ち進んだ。
しかし、まさかの事態が起きてしまう。
その準決勝で同門のファイティング原田とぶつかり同門対決となってしまった。
ジムはもとより主催する東日本ボクシング協会も頭を抱えたのだった。
当時のボクシング界としての身内同門対決は、時代背景からして罷りならぬものだったのだ。
どちらかが身を引くしかないのである。
結局、ジム側との相談で斉藤清作が辞退することとなった。
その後、斉藤清作は心情からして、試合に出たい気持ちは、やまやまだった筈だが、ファイティング原田の前では一切不満を口にする事はなかったと云う。
そして、そんな出来事はなかったかのように斉藤清作は戦い続けた。

1962年12月28日、35戦目にして日本フライ級王座に挑戦。
当時の日本フライ級王者の野口 恭(野口)と対戦して10回判定勝ちを収め、見事に王座を手にした。

その後、2度防衛。
1964年(昭和39年)4月2日に3度目の防衛戦。
飯田 健一(三鷹)と対戦するが10回判定負けして王座陥落。

その後に引退。

…無二の親友だったファイティング原田氏が語っている。〜「試合での展開はたいてい、対戦相手に打たせるだけ打たせておいて、耳元で(効いてない!効いてなーい!)と囁きながら、相手選手が打ち疲れたところで猛反撃して試合が終わってみると、相手選手は打ちのめされていました。
打っても、打っても倒れないで効いた素振りを見せないから、さぞかし対戦相手も斉藤は怖かったと思いますよ!」
〜と語っている。

斉藤清作は、生前にテレビ番組で語った「僕は、元々コメディアン俳優になりたくて上京したんだよ!取りあえず、ボクシングで名前を売ってからと云う気持ちがあったんでね!」
「同郷の由利 徹先生(コメディアン俳優)には選手時代に弟子入りしようとして伺ったら、チャピオンになったら来なさい!そうしたら弟子にしてやるよ!〜と云われて必死だったんだよね!」

斉藤清作は日本王者に登りつめてから『河童の清作』として人気者になり、抱いていた「まず、ボクシングで名を売って…」と云う思いは達成したのだった。

そして、引退するとコメディアンで俳優の由利 徹に弟子入りが許され「河童の清作」から「たこ八郎」の誕生となったのである。
芸名「たこ八郎」の由来は、足繁く通った行きつけの居酒屋「たこ久」から貰ったと記されている。

この時代、東京オリンピックを控えていて、ビル建設や道路整備工事、新幹線の建設ラッシュで「オリンピック景気」と呼ばれていた時代であった。

私は「河童の清作」時代の白黒フィルムをテレビで何度か見たことがあったが、その時の後楽園ホールは超満員の観客で埋まっていたのを思い出す。それだけあの破天荒な戦い方と、奇抜な姿に人気があったと云うことだった。そして、ある日、古本屋の立ち読みで、何かの古雑誌の「たこ八郎」の写真を見ていると、その頃の時代背景がノスタルジックに頭に浮かんで来るのだった。

〈斉藤清作(本名同じ)のプロフィール〉
【出身地】
宮城県仙台市宮城野区
【誕生日】
1940年(昭和15年)11月23日生まれ
【死没日】
1985年(昭和60年)7月24日
★神奈川県足柄下郡真鶴町の海水浴場で飲酒後に泳いでいて心臓麻痺を起こし死亡した。(享年44歳)

【ボクシング戦績】
◆43戦34勝(11KO)8敗1分
◆第13代日本フライ級王者=防衛2度(1962年12/28〜'64年4/2)
◆通称=河童の清作

【芸能界時代】
◆芸名=たこ八郎
◆通称=たこちゃん
◆キヤッチフレーズ=「たーっこで〜す!」
◆座右の銘=迷惑かけて、ありがとう!

…数え切れない程の数々のテレビ・ラジオ・映画に出演し、そして、人を笑わせて、この世を去っていった「たこちゃん」でした。

‥‥‥‥‥ 完

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コメント

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ずーっと開けてください。

お願いしま〜す!

投稿: 祐樹 | 2010年1月10日 (日) 23時46分

ずいぶんご無沙汰です。
また面白い記事お願いします。。。

投稿: Ken′ | 2010年1月10日 (日) 23時51分

お久しぶりですぅ〜
え〜っ!
たこちゃんってボクサーだったんですか!
知りませんでした!

投稿: まりっぺ | 2010年1月11日 (月) 18時46分

ギョエーッ・・・

フッカツ デスカ・・・

(^o^)v・・・

投稿: 鉄人29号 | 2010年1月11日 (月) 18時52分

ズ〜ッと読んでました…

何ヶ月ぶりですかね訪問するのは?

ア〜ッ今夜

内山と細野の世界戦ですが両者勝てばいいんですが?

ビールでも飲みながらテレビ観戦といきます…


投稿: KaZya | 2010年1月11日 (月) 19時30分

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