« 2010年1月17日 - 2010年1月23日 | トップページ | 2010年1月31日 - 2010年2月6日 »

2010年1月24日 - 2010年1月30日

2010年1月28日 (木)

特別編!《第21回オリンピック冬季競技大会(2010年/バンクーバー)》 頑張れ!ニッポン 応援ブログ!

    …特別編…    《第21回オリンピック冬季競技大会(2010年/バンクーバー)》                                    頑張れ!ニッポン                         応援ブログ!
    …特別編…    《第21回オリンピック冬季競技大会(2010年/バンクーバー)》                                    頑張れ!ニッポン                         応援ブログ!
    …特別編…    《第21回オリンピック冬季競技大会(2010年/バンクーバー)》                                    頑張れ!ニッポン                         応援ブログ!
    …特別編…    《第21回オリンピック冬季競技大会(2010年/バンクーバー)》                                    頑張れ!ニッポン                         応援ブログ!
    …特別編…    《第21回オリンピック冬季競技大会(2010年/バンクーバー)》                                    頑張れ!ニッポン                         応援ブログ!
    …特別編…    《第21回オリンピック冬季競技大会(2010年/バンクーバー)》                                    頑張れ!ニッポン                         応援ブログ!
…この不況の真っ只中、人々の生活も活気がない!
せめて、オリンピックの選手達で元気と勇気と感動で日本に活気を取り戻させてくれ!

〜たのむよ選手諸君!!!

〜頑張れ 頑張れ

〜ニーッポン!


| | コメント (6) | トラックバック (1)

《バンタム級続行!長谷川 穂積》1月27日発表![No.148]

《バンタム級続行!長谷川 穂積》1月27発表!
《バンタム級続行!長谷川 穂積》1月27発表!
…長谷川 穂積選手は1月27日JBC年間最優秀選手表彰式で年間最優秀選手賞とKO賞の2冠を受賞した。

その後のコメントで「これまでの試合はまだベストの状態ではない。最高のパフォーマンスで1回試合をしたいのでバンタム級でやります…」とバンタム級続行を発表した。

これで長谷川は迷いも吹っ切れて、落ち着いて練習に没頭出来るだろう。
その先には記録(具志堅用高13度防衛)を考える意欲も湧いて来るかも知れない。〜期待したい。

| | トラックバック (0)

2010年1月26日 (火)

…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ポール・ニューマン編〉

…ボクシング映画とその俳優!…其の1〜〈ポール・ニューマン〉
…ボクシング映画とその俳優!…其の1〜〈ポール・ニューマン〉
…ボクシング映画とその俳優!…其の1〜〈ポール・ニューマン〉
★ボクシング映画のボクサー役で演技が開花して、人気と名声を上げた俳優は素晴らしい演技派に成長する。

数あるボクシング映画の中で特に3人の大スター俳優ポール・ニューマン、ロバート・デ・ニーロ、ジョン・ボイトを取り上げてみた。
 
 ポール・ニューマン編…《傷だらけの栄光=1956年・白黒作品》
【監督・演出】ロバート・ワイズ
【原作】ロッキー・グラジアーノ
【脚本・原作補佐】ローランド・バーバー
 
【主演】ポール・ニューマン(ロッキー・グラジアーノ役)
ピア・アンシェリ(ノーマ=グラジアーノの恋人役)
 …1940年代から50年代に実在し、活躍したボクサーの元NBA(現WBA)世界ミドル級王者ロッキー・グラジアーノ(イタリア系米国人)が自叙伝として書き上げ、出版されベストセラーとなった作品の映画化。
 【あらすじ】
 …ロッキー・グラジアーノはニューヨークはイースト・サイドの貧民街に生まれ育った。
十代前半から喧嘩や窃盗に明け暮れて、どうにも手の付けられない不良少年だった。しまいには感化院に入れられてしまう。それから出たり入ったりの生活が8年間も続いた。
後に兵役に召集され、そこで軍隊のアマチュアボクシングを始めるのだった。
しかし、兵役時に軍隊の規律に馴染めず、人間関係もうまくいかず問題を起こして軍隊を脱走する。本名のトマース・ロッコ・バルべアから名前を変えてロッキー・グラジアーノとしてプロボクサーとなるが、逮捕されて刑務所行きになってしまう。そして、出所すると自分の過ちに自問自答する日々が続き、酒浸りの毎日。
…ある日、彼女(ノーマ)との出会いでグラジアーノは生活を悔い改めて、再度プロボクシングの道で生きていくことを決心する。
 
〜プロボクサーに復帰して連戦連勝で波に乗りかけた矢先、刑務所で知り合ったマフィアの手下に八百長試合を強要され、それを拒否すると、刑務所にいた事を新聞社に暴露されたりと難題が待ち受けていたのだった。そして、それを克服して、当時の強打者で絶大な人気を誇ったNBA世界ミドル級王者トニー・ゼール(ポーランド系米国人)に2度目の挑戦で見事に勝利して新王者になるまでを描く‥‥‥
 
当初、このロッキー・グラジアーノ役は、あのジェームス・ディーンが演じるはずであったが、自動車事故で亡くなった為に、ロバート・ワイズ監督の強い要望で、代役としてポール・ニューマンが演じることとなった。まだ駆け出しだった若い頃のスティーブ・マックィーンも(グラジアーノの友人役)チンピラのチョイ役で出演している。そして、(ノーマ役)で出演した女優のピア・アンシェリはジェームス・ディーンの実際の恋人だったと言われている。
当時、ポール・ニューマンはテレビドラマなどでは人気が出始めていたが、映画は初主演だった。しかし、この映画が大ヒットして一躍、演技派俳優として絶賛され名を売ることとなり、この映画をきっかけに俳優として大きく羽ばたいて行った。
 …この映画は単なる娯楽映画としてではなく、人間の苦悩や心理を内面から深く追求してドキュメント風に描かれている。そして、1940年代の時代背景も忠実に描かれ白黒映像が一層に画面を引き締めてもいる。ロバート・ワイズ監督の演出手腕もさる事ながら、それまでになかった撮影技法を駆使してのドキュメンティックな映像はアメリカは元より世界でも絶賛された。〜この映画は、何度見ても飽きないのだ。そして、数あるボクシング映画の中でも傑作の一つと言えるだろう。

―――ロバート・デ・ニーロ編に続く!

| | トラックバック (1)

2010年1月25日 (月)

…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ジョン・ボイト編〉

…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ジョン・ボイト〉
…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ジョン・ボイト〉
…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ジョン・ボイト〉
…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ジョン・ボイト〉
…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ジョン・ボイト〉

 ジョン・ボイトは「チャンプ」に主演する以前には話題作となった映画で、既に演技派として名前も知られていた。

「真夜中のカウボーイ=1969年」「オデッサ・ファイル=1974年」「コンラック先生=1974年」「帰郷=1978年」この他にも多数の主演、出演作はあるが特に、この4作品は日本でも話題になった作品である。

『チャンプ』1979年の作品。

【監督】フランコ・ゼフィレッリ=「ロミオとジュリエット=1968年」「ブラザー・サン・シスター・ムーン=1972年」などの作品で知られた。


【原作】フランシス・マリオン(アメリカの女流脚本家の先駆者である。演出もこなし女優でもあった。1887年〜1973年)
【脚本】ウォルター・ニューマン
 

【音楽】ディブ・グルーシン

★《キャスト》★

【主演】☆ジョン・ボイト(ビリー・フリン=ボクサー役)

☆フェイ・ダナウェイ(アニー=ビリーの元妻役)

☆リッキー・シュローダー(T・J=ビリーの息子役)

☆ジヤック・ウォーデン(ジヤッキー=ビリーの元マネージャー役)

☆アーサー・ヒル(マイク=学者でアニーの再婚者役)

  ※「私は、この映画の原作が女性によって書かれたものとは知らないまま観ていた。そして、この作品が、1931年の作でリメイクされたものであることも、後で知ることに…」
 
【あらすじ】
…ビリー・フリンはボクシングの元世界チャンピオンである。
引退してからは、競馬場の厩務員として働き、妻のアニーと息子のT・J3人で幸福に暮らしていた。
しかし、いつの日からか仕事に嫌気がさしたのか酒浸りになりギャンブルに溺れ、幸福な生活も乱れて、妻のアニーと諍(いさか)いが絶えず、アニーは嫌気がさして、幼いT・Jを置いて家を出て行ってしまう。
 
 T・Jはまだ物心が付かなく幼かった為に、どうして母親がいないのか分からないまま育って行く。
 
 母親がいないにも拘わらずT・Jは元気で伸び伸びと毎日を過ごしていた。ビリーがボクシングの元世界チャンピオンだったこともT・Jは写真を見たり聞いたりして知っていた。
T・Jは、この上なく父を尊敬していてパパとは呼ばず、何時も「チャンプ」と呼ぶのだった。それには、もう一度世界チャンピオンになって欲しいと云う願いも込められているからだった。
 ビリーは相変わらず酒浸りの毎日を過ごしていたが、ある日ギャンブルで大儲けして競走馬を持っことになった。その競走馬をT・Jの持ち馬として与えシーズ・ア・レディーと命名した。そして、厩舎の友人に頼み込んで馬を出走させることになる。
競馬場には偶然にも元妻だったアニーも来ていたのだった。
アニーは学者のマイクと再婚してファッション・デザイナーとして名声を上げ成功者となっていた。
競馬場に来たのは、友人の馬主に会う為と、ファッションショーを開く為に来ていたのだった。

そして、いよいよ出走したが、よりによってT・Jの競走馬は事故を起こしてしまい無残な結果となってしまった。


それを望遠鏡で覗いていたアニーはビリーに寄り添うT・Jを見つけて唖然とする。7年前に別れた自分の産んだ息子がそこにいるのだった。アニーは不憫でたまらず、居ても立ってもいられず、涙ぐみながら会いに行く。

そして、遂にアニーはT・Jに会って抱き、抱擁する。〜別れた後でT・Jは薄々、母親ではないかとビリーに問うが「ママは交通事故で亡くなって、この世にはいないんだよ!」と嘘を言って諭すのだった。
…ビリーのその後はギャンブルで損をしては借金を繰り返す日々を送って、どうにもならなくなってしまい、裕福になったアニーにお金を工面して貰う。
しかし、借金の返済を巡り相手を殴ってしまい警察官にまで暴力を振るい留置されてしまう。
T・Jは心配して警察に接見しに行く。困ったビリーはT・Jにアニーの所へ行って暮らすように命令する。
それから、何日か経って殴った相手もたいした怪我ではなかった為に、すぐに留置を解かれて家に帰る。
そして、T・Jは自分を産んでくれた実の母親がアニーだと分かったが、余りにも裕福過ぎる生活に馴染むことが出来ず、ビリーの元へ帰って行くのだった。

 ある日、T・Jはビリーに「ねー!チャンプ、もう一度世界チャンピオンになってよ!頼むから〜お願い!」とせがむ。
 T・Jのこの願いに、ビリーは自分の情けない、今のこの生活を思い直し、奮起することを誓う。
 
そして、昔マネージャーだったジヤッキーを呼んで復帰を頼み込み、37才にもなった体に鞭を打つように、ビリーは練習を開始するのだった。‥‥‥
 
  ★この映画が封切られると観客は映画館を出てくる殆どの人が涙ぐみ目を熱くした。
 
 この後、子役のリッキー・シュローダーがゴールデン・グローブ新人賞を受賞。 
ジョン・ボイトがアカデミー賞・主演男優賞を受賞した。
 
――――――― END
 

| | コメント (3)

…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ロバート・デ・ニーロ編〉

…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ロバート・デニーロ編〉
…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ロバート・デニーロ編〉
…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ロバート・デニーロ編〉
…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ロバート・デニーロ編〉
…ボクシング映画とその俳優!…〜〈ロバート・デニーロ編〉
…映画『レイジングブル』と言えば、実在した元NBA(後のWBA)世界ミドル級王者のジェイク・ラモッタ(イタリア系米国人)の現役時代のニックネーム「怒れる牡牛=レイジングブル」が映画の題材となっている。
この映画はジェイク・ラモッタ本人が書いた自叙伝が元になっていて、1940年代から1960年代にかけてのボクサー時代の栄光から引退してからの挫折を綴ったものである。

『レイジンブル』は1980年の製作。前半カラーで回想シーンは白黒の作品。

【監督】マーティン・スコセッシ

【原作】ジェイク・ラモッタ
【脚本】ポール・シュレイダー/ マーディク・マーティン
★【主演】ロバート・デ・ニーロ

(その他出演者)
★ ジョー・ペシ(ジョーイ=ラモッタの弟役)
★キャシー・モリアーティ(ビッキー=ラモッタの妻役)
★ニコラス・コラサント(トニー・コモ=マフィアの大物役)

…ロバート・デ・ニーロはこれ以前にフランシス・F・コッポラ監督の1974年の大ヒット作品『ゴッドファーザー2』に出演してアカデミー賞・助演男優賞を受賞している。その後にも、たて続けに話題作となったシリアス物に主演している。
1976年マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』
1978年マイケル・チミノ監督『ディアハンター』

…デ・ニーロはどの役に対しても異常なまでに、その役柄に徹底して成り切る役者である。
「タクシードライバー」では、社会に対しての不満を持ったベトナム帰還兵のタクシー運転手(トラビス役)では、実際にタクシー会社に約1カ月間ほど勤務して、夜の街を(流し営業)の経験しての念の入れようで迫真の演技を披露した。そして、この映画も大ヒット。この映画に感化され影響されたのか、当時のレーガン大統領暗殺未遂事件を起こし、ピストルを発砲した犯人は、事件を起こす前に、この映画を数回見ていたと語っている。

…この「レイジングブル」でのラモッタ役では当然のように、ジムに通い現役ボクサーと同じように体を鍛え上げ、ボクシングの試合シーンを撮り終えた。それが済むと今度は、引退したボクサーの体型を撮る為に、撮影を一時中断する。数カ月間わざわざ肥満する旅行に出かける。イタリアに住むデ・ニーロの父親の親戚を訪ねて行き、大好物のパスタや肉料理を大食いして20キロ以上も太って帰って来ると撮影を再開した。
このように、徹底してその役柄に成り切る為に「デ・ニーロ〜アプローチ」と云う造語まで生まれた。

監督のマーティン・スコセッシとは同じイタリア系アメリカ人と云うこともあって同胞意識があり意気投合して「タクシードライバー」を撮り終えてから益々信頼を深めていった。またジェイク・ラモッタもイタリア系アメリカ人と云うところに余計に力が入る。

そして、『レイジングブル』を撮り終えた。

【あらすじ】

…ラモッタは、引退してショービジネス界に入りニューヨークのバルビン・シアターで映画「波止場」の語り部をしていた。この映画はマーロン・ブランドが元ボクサー役で主演した名シーンのセリフをラモッタが真似て紹介するところから始まる。

…1941年、ラモッタは黒人選手との試合で判定負けしてしまう。
しかし、この試合は明らかにラモッタが打ち勝っていたはずだった。
このことで、セコンドに就いていたトレーナーの弟ジョーイと亀裂が生じてしまう。
それでもその後は、試合をこなして連戦連勝して行くのだった。

そして、1943年当時、人気急上昇中で連勝中だったシュガー・レイ・ロビンソンにKO勝ちして名を上げるのだったが、3カ月後のリターンマッチでは判定負けして落ち込んでしまい、酒浸りになって荒んだ生活を送るようになる。

この頃、ラモッタはビッキーと云う滅法美人の女性と出会って結婚していたが酒浸りの事で喧嘩が絶えなかった。
その上、妄想からか弟のジョーイがビッキーにチョッカイを出してはいないかと疑うようになり兄弟喧嘩にまで発展する始末。

そんな生活を送っていたある日、プロモーターを名のるトニー・コモと云う男がラモッタに近付いてくる。
しかし、この男の正体は八百長試合を組んで一儲けを企むマフィアの大物だったのだ。

八百長話しを持ち掛けられたラモッタは生活苦からこの話しを呑んでしまうのだった。
その八百長試合は1947年ニューヨーク・マジソンスクェアガーデンでのミドル級ノンタイトル戦ビリー・フオックス戦で実行された。
ラモッタは連打され、めった打ちにされてもなかなか倒れない。レフェリーは、見かねて、たまらず4Rでストップしたが、ラモッタは“ニヤリ”と薄笑いを浮かべて倒れることはなかった。わざと敗者になったのだ。
〜試合が終わるとラモッタはファンを裏切った事で、悩み心を打ちひしがれて行く。

そして、2年が過ぎて遂にラモッタにチャンスが訪れる。
フランスの英雄で王者のマルセル・セルダンとの対戦が決定したのだった・・・・・

★この映画は封切られると全世界で大ヒットしてロバート・デ・ニーロはアカデミー賞・主演男優賞に輝いた。そして、受賞式場では映画のモデルとなった本人のジェイク・ラモッタが現れ「君が演じてくれたお陰で、また元気がでたよ!本当に心から誇りに思う。ありがとう!…」と我がことのようにデ・ニーロの手を握りしめて喜んだと云う。…現在もジェイク・ラモッタは88歳で健在である。


―――ジョン・ボイト編に続く!

| | トラックバック (0)

…米国スポーツ誌『スポイラ』の選んだボクシング史上最高の順位!…[No.147]

…米国スポーツ誌『スポイラ』の選んだボクシング史上最高の順位!…
…米国スポーツ誌『スポイラ』の選んだボクシング史上最高の順位!…
…米国スポーツ誌『スポイラ』の選んだボクシング史上最高の順位!…
…米国スポーツ誌『スポイラ』の選んだボクシング史上最高の順位!…
…米国スポーツ誌『スポイラ』の選んだボクシング史上最高の順位!…
…米国スポーツ誌『スポイラ』の選んだボクシング史上最高の順位!…
…米国スポーツ誌のスポーツ・イラストレイテッド社(通称スポイラ)が昨年11月に過去の名選手、名試合のランキング「史上最高ボクサー」と「史上最高ファイト」を電子版と雑誌で発表したが、どうも、はっきりとした選出内容が分からない。

どういった選定者がどう云う基準で選んだのか?
あまり権威のあるものとも思えないのだが、所謂パウンド・フォー・パウンド(最強選手)を決めるものだが世界中のファンに、今回の選出が認知されるかどうかだろう。
…元々、こう云う類のランク選出選定は毎年どこかのスポーツ雑誌で発表されるが、その年の選定者の年齢、識者、選出方法や私感によってかなり違ってくるものだ。
今回、スポーツ・イラストレイテッド社が選んだ「史上最高ボクサー」は1940年〜1965年に活躍しボクシング史上初めてパウンド・フォー・パウンドの称号を得たウェルター級、ミドル級王者のシュガー・レイ・ロビンソン(米国)となった。
次に、「史上最高ファイト」として選ばれたのが1923年9月14日に行われたヘビー級王者のジャック・デンプシー(米国)対ルイス・アンヘル・フィルポ(アルゼンチン)のヘビー級の試合となった。

何れも、当時の日本ボクシング界でも両者とも知られていて「拳聖」と呼ばれ、神様のような存在の名選手である事は間違いないのだが…

アメリカには他に諸々スポーツ誌があるが、特に大手出版3社が競ってランク付けを発表する。

◆今回の『Sports Illustrated』誌は1954年の創刊で、古くから、スポーツウェアや水着ファッションの特集に力を入れていて、表紙はまるで水着ファッション雑誌(全てではないが)と見間違うスポーツ誌になった。

◆ライバルの『SPORT』誌は1946年創刊の老舗スポーツ誌。
こちらは、得意のランキング発表の老舗でもある。
MLB・NFL・NBAやボクシングを含めて諸々のスポーツの人気度、成績、年俸などのランキングを毎年発表する。また、オリンピックの各国メダル獲得数の予想などを恒例としている。

◆そして、ボクシング界のバイブルとまで云われる『The Ring』は1922年創刊の老舗ボクシング専門誌。最近はボクシング某認定団体への接近し過ぎで、記事が偏り過ぎているとの評判で、本元ではあるが、あまりパッとしていない。

何れにせよ、アメリカ国民はランキング好きだと、在る雑誌で読んだ事があるが、特にスポーツに関して特集すると数百万部の売上部数が伸びるらしい。
今回の選出に関してボクシングファンから見て異論はあるかどうかだが、おそらく意見は分かれるだろう。

いっその事、営利抜きで3誌合同で選定すれば、もっと権威あるものになるかもしれない。
そうすれば過去の名選手達もファンも納得する筈だ。

★今回の選定順位
【史上最高ボクサーの部/全17階級を含めた順位】
−(1位)−
*シュガー・レイ・ロビンソン(米国)
−(2位)−
*ハリー・グレブ(米国)
−(3位)−
*ロベルト・デュラン(パナマ)
−(4位)−
*ヘンリー・アームストロング(米国)
−(5位)−
*イザード・チャールズ(米国)
−(6位)−
*ジョー・ガンス(米国)
−(7位)−
*サム・ラングフォード(米国)
−(8位)−
*ベニー・レナード(米国)
−(9位)−
*リカルド・ロペス(メキシコ)
−(10位)−
*ミッキー・ウォーカー(米国)
★因みに史上最高ボクサー階級部門を見ると、ヘビー級1位モハメド・アリ/ミドル級1位ハリー・グレブ/ライト級1位ロベルト・デュラン/など…しかし、ロッキー・マルシアーノ、ジョー・ルイス、モハメド・アリ、ジョージ・フォアマン、マイク・タイソンなどは10位外ランクに…
【最高試合の部】
*ジャック・デンプシー(米国)対ルイス・アンヘル・フィルポ(アルゼンチン)1923年9月14日の試合。

あくまでも『スポイラ』の順位であって、今後『スポマガ』『リング』両誌が発表すれば順位も異なるだろう。
次のランキング発表はどんな顔ぶれになるのか楽しみでもある。

| | トラックバック (0)

《転級か?〜それとも階級維持かで揺れる!長谷川 穂積選手》…[No.146]

《転級か?〜それとも階級維持かで揺れる!長谷川 穂積選手》
《転級か?〜それとも階級維持かで揺れる!長谷川 穂積選手》
《転級か?〜それとも階級維持かで揺れる!長谷川 穂積選手》
…階級を維持するのか、それとも上げるのかで思案中の長谷川選手。

ファンにとっても様々に意見が分かれるであろう。
〈転級への検証〉
昔、米国のスポーツ運動力学の学者と学生の間でボクシングのパンチの衝撃力を測定する研究があった。

4人の現役アマチュアボクサーを使って、それぞれ5Kg体重の違う選手達の総当たりで実験的に戦いパンチの衝撃度を測定機器を使って調べていた。
そして、一番軽い選手と一番重い選手の戦う姿をハイスピードカメラが追う。
選手同士の打ち合うパンチの衝撃力が数字で表示される。
選手のヘッドギアとウェアに衝撃探知板が取り付けられているのだ。
それを見ると最初に軽い選手のパンチ力数字が150Kgと出て、重い選手は130Kgと出ている。
ところが、角度が変わった所での打ち合いで重い選手のパンチ力が170Kgと出た。当たり前だが、やはり重い選手の衝撃力が上回る。
これを、数ラウンド体重の違う者同士で繰り返す。
そして、ラウンド終了時にトタールでどれだけの重量を被弾するのか、また、5Kgの体重差のカロリー消費量やパンチの重みの差を研究しているのだった。

この時の軽い選手の打った最高数値150Kgと重い選手の最高数値170Kgの20Kg差のパンチ力をスロー画像で見ると、もの凄い衝撃を受けているのが分かる。
しかし、これはそのまま全ての試合に当て嵌まるものではない。
体重差があっても、それぞれ動きに個人差があったり、たとえ5キロの体重差があっても軽い方が重い方を打ち倒す場合もあるからだ。

この研究で100回百数十人の選手でいろんな角度から調べ、平均数値で1Kg体重が違うと平均して約305gの圧力衝撃度が違ったと発表した。
しかし、これとて試合ごとに状況が違うので一概に鵜呑みには出来ないのだが…

これはもう天国にいるニュートンさんかパスカルさんに計算して貰う他ない。

長谷川選手がバンタム級から2階級上げてフェザー級で戦うかも知れないと報じられたが、もしそうだとすれば、リミットで3,63Kgの体重差がある。
ここで米国の研究チームの1Kgで305gのパンチ力差を無理に当て嵌めてみると、今までよりも約1107gの圧力が加わり衝撃度が増す事になる。しかし、これは選手の戦い方次第だと思うのだが、以前2階級上げて戦った、或る選手のコメントでは「今までの木槌で殴られたのと、金槌で殴られた違い」と形容表現したほどに違うものなのかも知れない。つまり、階級を上げる分のパンチ力と耐久力を付ける必要があると云うことだろう。

何時の日だったか、長谷川選手は「減量には、もうくたくたで、毎回死ぬ思いで辛いです!」とコメントしていた。あと3回で具志堅用高の記録に並ぶのだが、何しろ毎回10キロ以上の減量に苦しむ長谷川選手からすれば、記録を伸ばす事よりも、転級を考えたい気持ちも痛い程わかる。
そして、近々、結論を出すと発表した。

| | トラックバック (0)

2010年1月24日 (日)

《親子鷹!長嶋 建吾(エイティーン古河)〜引退!》…1月16日後楽園HL [No.145]

《親子鷹!長嶋 建吾(エイティーン古河)〜引退!》…1月16日後楽園HL [No.145]
《親子鷹!長嶋 建吾(エイティーン古河)〜引退!》…1月16日後楽園HL [No.145]
《親子鷹!長嶋 建吾(エイティーン古河)〜引退!》…1月16日後楽園HL [No.145]
《OPBF東洋太平洋ライト級タイトルマッチ12回戦》

(王者)
長嶋建吾(エイティーン古河)
−VS−
(同級7位)
三垣龍次(M・T)

… 長嶋は4回に三垣の右フックでダウンを取られると、その後は反撃して挽回、9回まではポイントでリードしていた。

しかし、10回に入って三垣の右ストレートを受けて2度目のダウン奪われ、立ち上がりざまに連打を浴びたところで長嶋側からタオルが投げこまれて、レフェリーは試合をストップした。

10回2分07秒で三垣のTKO勝ち。

この後、長嶋は「もう引退します。コンディションは良かったけれど、完敗です」と話し引退を表明した。

長嶋は高校、大学でトップアマチュアとして活躍。大学中退後の1995年6月3日に判定勝ちのプロデビュー。
その後は、日本王座、OPBF東洋太平洋王座のS・フェザー級、ライト級と各2階級王座を獲得。

2002年8月24日には世界初挑戦。WBC世界S・フェザー級王座に挑んだが王者のシリモンコン・シンワンチャー(タイ)に2回KO負けして王座奪取ならず。
父である会長と親子鷹で2度目の世界戦を目指していたが残念ながら実現しなかった。父も「良い幕引きだと思います」と話した。

長嶋はデビュー当時から世界を狙える逸材と騒がれたが、今一歩のところで及ばなかった。いつかは引退を迎えると分かってはいても、なにか寂しいものがある…
そして、惜しまれつつも15年の永い選手生活にピリオドを打った。

☆長嶋建吾
〔戦績〕
*プロ
【44戦38勝(28KO)4敗2分】
*アマ
【90戦80勝(28RSC)10敗】

☆(新王者)三垣龍次
〔戦績〕
【16戦14勝(10KO)2敗】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《後楽園ホールに河童がいた頃!》

《後楽園ホールに河童がいた頃!》
《後楽園ホールに河童がいた頃!》
☆その昔、後楽園ホールに河童が現れたのだった。「ウッヒャ〜ッ!カッパだ〜ッ!カッパ〜ッ!」と観客が騒ぐ。
…時は1963年(昭和38)〜1964年のその頃ホールに時々現れた。
観衆は度肝を抜かされ、数秒間経つと失笑から大爆笑に変わっていった。
その正体とは、ボクサーの「河童の清作」こと斉藤清作で、頭のてっぺんを剃り上げて登場して来るのだった。第13代日本フライ級王者である。
この突飛なパフォーマンスの主は、のちの“タ〜ッコで〜す”の「たこ八郎」であった。
もうこの頃からコメディアンの素質は十分にあったのだろうか?

しかし、これには一つの理由があったと言う。
彼は小学生の頃に泥んこ遊びで友達が投げた泥んこが左目にあたり、殆ど視力をなくしていたのである。
その河童頭にした理由は人を笑わせると云うよりも、頭のてっぺんを丸く剃って、対戦相手の気をそらせ惑わす為の心理作戦だったと後に語っていた。

では何故?目が悪くてプロボクサーになれたのかと云うとプロテストの視力検査の時に、前以て視力表を丸暗記してパスしたのだと云う。
しかし、元々斉藤清作は宮城県(私立)仙台育英高校のボクシング部2年生時に県大会優勝の経験を持ち、技術的にはボクサーとしての体は出来上がっていたのである。

すなわち、高校時代のボクシング部でも左目の不自由を隠し通したことになる。
卒業すると上京して職を転々としながら過ごす。
〜ある日、仕事中(映画館のフィルム配達)にたまたま通りかかった際に笹崎ジムが目に飛び込んで来て、入門することにしたと云う。

その笹崎ジムには、後に2階級制覇世界王者となるファイティング原田もいた。
斉藤清作は入門すると、昔取った杵柄で難無くプロデビュー出来た。その後はめきめきと力を付けて、東日本新人王戦に出場することになって、準決勝まで勝ち進んだ。
しかし、まさかの事態が起きてしまう。
その準決勝で同門のファイティング原田とぶつかり同門対決となってしまった。
ジムはもとより主催する東日本ボクシング協会も頭を抱えたのだった。
当時のボクシング界としての身内同門対決は、時代背景からして罷りならぬものだったのだ。
どちらかが身を引くしかないのである。
結局、ジム側との相談で斉藤清作が辞退することとなった。
その後、斉藤清作は心情からして、試合に出たい気持ちは、やまやまだった筈だが、ファイティング原田の前では一切不満を口にする事はなかったと云う。
そして、そんな出来事はなかったかのように斉藤清作は戦い続けた。

1962年12月28日、35戦目にして日本フライ級王座に挑戦。
当時の日本フライ級王者の野口 恭(野口)と対戦して10回判定勝ちを収め、見事に王座を手にした。

その後、2度防衛。
1964年(昭和39年)4月2日に3度目の防衛戦。
飯田 健一(三鷹)と対戦するが10回判定負けして王座陥落。

その後に引退。

…無二の親友だったファイティング原田氏が語っている。〜「試合での展開はたいてい、対戦相手に打たせるだけ打たせておいて、耳元で(効いてない!効いてなーい!)と囁きながら、相手選手が打ち疲れたところで猛反撃して試合が終わってみると、相手選手は打ちのめされていました。
打っても、打っても倒れないで効いた素振りを見せないから、さぞかし対戦相手も斉藤は怖かったと思いますよ!」
〜と語っている。

斉藤清作は、生前にテレビ番組で語った「僕は、元々コメディアン俳優になりたくて上京したんだよ!取りあえず、ボクシングで名前を売ってからと云う気持ちがあったんでね!」
「同郷の由利 徹先生(コメディアン俳優)には選手時代に弟子入りしようとして伺ったら、チャピオンになったら来なさい!そうしたら弟子にしてやるよ!〜と云われて必死だったんだよね!」

斉藤清作は日本王者に登りつめてから『河童の清作』として人気者になり、抱いていた「まず、ボクシングで名を売って…」と云う思いは達成したのだった。

そして、引退するとコメディアンで俳優の由利 徹に弟子入りが許され「河童の清作」から「たこ八郎」の誕生となったのである。
芸名「たこ八郎」の由来は、足繁く通った行きつけの居酒屋「たこ久」から貰ったと記されている。

この時代、東京オリンピックを控えていて、ビル建設や道路整備工事、新幹線の建設ラッシュで「オリンピック景気」と呼ばれていた時代であった。

私は「河童の清作」時代の白黒フィルムをテレビで何度か見たことがあったが、その時の後楽園ホールは超満員の観客で埋まっていたのを思い出す。それだけあの破天荒な戦い方と、奇抜な姿に人気があったと云うことだった。そして、ある日、古本屋の立ち読みで、何かの古雑誌の「たこ八郎」の写真を見ていると、その頃の時代背景がノスタルジックに頭に浮かんで来るのだった。

〈斉藤清作(本名同じ)のプロフィール〉
【出身地】
宮城県仙台市宮城野区
【誕生日】
1940年(昭和15年)11月23日生まれ
【死没日】
1985年(昭和60年)7月24日
★神奈川県足柄下郡真鶴町の海水浴場で飲酒後に泳いでいて心臓麻痺を起こし死亡した。(享年44歳)

【ボクシング戦績】
◆43戦34勝(11KO)8敗1分
◆第13代日本フライ級王者=防衛2度(1962年12/28〜'64年4/2)
◆通称=河童の清作

【芸能界時代】
◆芸名=たこ八郎
◆通称=たこちゃん
◆キヤッチフレーズ=「たーっこで〜す!」
◆座右の銘=迷惑かけて、ありがとう!

…数え切れない程の数々のテレビ・ラジオ・映画に出演し、そして、人を笑わせて、この世を去っていった「たこちゃん」でした。

‥‥‥‥‥ 完

| | コメント (5) | トラックバック (0)

《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の3<最終章> [No.144]

《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の3<最終章> [No.144]
《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の3<最終章> [No.144]
《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の3<最終章> [No.144]
☆ 大和田 正春は世界ランカーの赤井 英和に勝利して一躍名を上げ順調に行くかと思われたのだったが…

…「世紀の大番狂わせ!」とスポーツ紙を賑わせ、マスコミでも引っ張りだことなった大和田は、後楽園ホールに現れると皆振り向くようになったのである。
あの、あまりにも衝撃的な試合で、次も豪快なKOシーンを見せてくれるものだとファンは期待するのだった。

しかし、ボクシングには次の試合も絶対に勝てると云う保証はどこにもないのである。

そして、大和田は悪夢にさらされる。
赤井戦後の凱旋試合となる大事な試合に負け、次の試合も負けてしまったのだ。
◆1985年6月11日
飛鳥良(松戸平沼)にまさかの5回KO負け。
この試合のKO負けが原因だったのか7カ月間も試合から遠ざかってしまう。
◆1986年1月27日
木村栄治(ロッキー)に1回KO負け。

「あ〜ッ!やっぱり、顎が弱い!ガラスのジョーか!また、元の鞘(さや)に収まってしまった感じだッ!」とばかりファンから揶揄されたりもした。
連敗の原因はやはり減量の厳しさから来るものだったのか?試練のしどころだった。
そして、次の試合から階級を上げてミドル級で挑む事となった。
大和田にとって、もう絶対に負けられない、後がないと言う心境だったろう。
ただ自ら奮起するしかなかった。
そんな試練の中、ノンタイトル戦ながら日本ミドル級王者への対戦が決定する。満を持して挑む事になった。

◆1986年3月24日
日本ミドル級王者の無限川坂(上福岡)に鮮やかな4回KO勝ち。
この後に正式な挑戦が決定する。

いよいよ試される大一番の日が訪れた。
◆1986年8月11日
日本ミドル級王者
無限川坂(上福岡)に挑むのだが、前回のように簡単には行かなかった。やはり易々と王座を明け渡す筈もないのだ。
しかし、壮絶な打撃戦になりながらも、大和田の有効打が上回り10回判定勝ちとなり念願の日本ミドル級王座を獲得する事となった。

王者になってからは、眠りから覚めた猛獣の如くリングを熱くして行った。
そして、通称「和製ハグラー」の名もファンの間に定着した。
目の覚めた様に快進撃が続く。
◆1986年9月28日
丸尾 正(福岡帝拳)
5回KO勝ち。(初防衛)
◆1986年12月15日
無限川坂(上福岡)
10回KO勝ち。(防衛2)
◆1987年3月23日
丸尾 正(福岡帝拳)
8回TKO勝ち。(防衛3)
◆1987年5月10日
松柳俊紀(東邦)
5回KO勝ち。(防衛4)
★1987年9月6日
OPBF東洋太平洋ミドル級王座挑戦
王者ポーリー・パシレロン(インドネシア)に挑むが7回TKO負け。OPBFの王座獲得はならず。
◆1987年12月14日
大和武士(セラピー渡辺)5回KO勝ち。(防衛5)

大和田は、このあと網膜剥離と診断され、まだこれからと云う時期に惜しまれつつ1988年3月21日引退となった。

世界も東洋も王座には届かなかったが、倒し倒され、勝っても負けても殆どの試合でKO決着した選手はそう多くはない。
何しろ16勝で14度のKO勝ち。負けの11敗で9度のKO負けと、激しい打撃戦を物語っている。
その結果、二人を引退に追いやり、自らも犠牲となる網膜を傷める結果となってしまった。
そんな豪快な戦いぶりの記憶に残る、目に焼き付いた選手だった。

そして、映画『どついたるねん』(監督・阪本順治/主演・赤井英和)を生むきっかけともなったのである。

大和田正春
(戦績)
28戦16勝(14KO)11敗1分

第37代日本ミドル級王座(5度防衛)
1988年3月21日王座返上。

現在、大和田正春氏は埼玉県狭山市の(多寿満ジム)で後進の指導にあたっている。

――――――― 完

【写真/金沢興一&戦士と語る〜より】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の2[No.143]

《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の2[No.143]
☆ 1985年2月5日、WBC世界J・ウェルター級8位/赤井英和(グリーンツダ)対日本ウェルター級8位/大和田正春(角海老宝石)の試合会場、大阪府立体育会館は超満員となった。

両者が登場すると歓声が沸く。

赤井は「浪速のロッキー」として全国区の人気を誇っていたが、大和田の大阪での知名度は低く、熱心なボクシングファン以外には知られていなかった。

大和田は在日米軍隊員の父と日本人の母との間に生まれた。この当時、世界ミドル級王者で絶大な人気を誇ったマービン・ハグラー(米国)に風貌が似ていたことから、東京ではいつの日からか「和製ハグラー」と呼ばれる様になっていた。

リングに登場した両者はお互いコーナーを見遣る。
赤井は調子の良さをアピールするように両手を上げながら笑みを浮かべる。
大和田は真剣な面持ちで体を動かし、キリッとしていた。

観衆のざわめきの中リング上は緊張感が漂う。

リングアナの選手紹介が終わるとリング中央で注意を受けてコーナーに戻ると一瞬ざわめきが止んだ。

〜そして、ゴングが打ち鳴らされた。

…初回はお互い接近しての左右出し合いで始まった。
やや大和田の左ジャブが赤井をとらえている。

2回〜3回までは赤井も左右で攻めるが動きがよくなく大和田のジャブを容易に貰う場面が多くなっていく。

4回に入って益々大和田の動きがいい。左ジャブから左フックで赤井をコーナーに追い込んで右ストレートをヒットさせ赤井は“ダウン”。
立ち上がり、なんとか必死で応戦して、この回はゴングに救われた。

5回〜6回と赤井は左右で反撃を試みるがダウンが響いたのか体が重く思うように攻めきれない。明らかに大和田がポイントリードをしている。

7回に入って赤井は大和田の左ジャブにてこずり反撃も見い出せず、動きも鈍る。
ラウンド終盤になって、大和田の右アッパーから左の強烈なダブルフックで赤井は前のめりに顔を打ちつけるように“ダウン”…
カウントを取られながら立ち上がろうとするが、再び仰向けに倒れ込んでしまった。

そして、カウントアウト…赤井の7回2分48秒のKO負け。

大和田はリング上を廻りながら手を突き上げ勝利アピールをするのだった。

この後、リング上に倒れ込んだままの赤井の容態がおかしくなった。
リングドクターも赤井陣営も、ただ事ではないことにきずき、場内の観客も騒然となったのである。
そして、直ちに担架によって病院へと運ばれていった。

誰もがこんな戦慄をおびた試合になろうとは予想も出来なかった。

…赤井は大阪市内の病院へと担ぎ込まれ、診断の結果「急性硬膜下血腫脳挫傷」と診断されて重体であると発表された。
この日の夜9時のニュースで全国に流れ大騒ぎとなった。

このニュースを聞いた大和田選手の心情もただならぬ気持ちだったに違いなかった。

それから一週間くらい経った頃には、なんとか生死の境目からは脱して快方に向かいつつあるとの報道がされる。

そして、数カ月経った頃テレビの画面に生死をさ迷って生還した赤井英和の笑顔の姿があった。
そんな姿にグローブを交えた大和田選手も胸を撫で降ろす心境だったに違いなかった。

そんな大和田は一躍名を上げ、東京での戦いは順調に行くかと思われたが、その先には再び試練が待ち受けていた。

‥‥‥其の3に続く

【ボクシングマガジン/Youtube/Wikipedia〜参照】

| | トラックバック (0)

《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の1[No.142]

《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の1[No.142]
《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の1[No.142]
《懐かしきボクサー!〜大和田 正春》…其の1[No.142]
☆ 今から25年前の1985年2月5日に大阪府立体育会館でボクシングの世界前哨戦と名うった試合が行われようとしていた。

当時、ボクサーで最も人気のあった「浪速のロッキー」こと赤井 英和(グリーンツダ)の試合である。
赤井はそれ以前の1983年7月7日にアマチュアから鳴り物入りでプロへ転向して14戦14勝13KOと言う戦績を引っ提げて世界戦を経験していたのだった。
挑戦した相手はWBC世界J・ウェルター級(現S・ライト)王者のブルース・カリー選手(米国)で近大記念会館で行われた試合で結果は7回1分11秒のKO負けだった。
しかし、負けてもボクサーらしからぬ端正なマスクと強気のビッグマウスに人気は衰えていなかった。

そして、この日の試合は2度目の世界挑戦への足掛かりとしての大事な試合であった。

一方、対戦相手はノンタイトル戦ながら、当代切っての人気者に、一泡吹かす意気込みで東京から大阪へと遠征して来た大和田 正春選手(角海老宝石)であった。
この時点での大和田の戦績は17戦8勝(7KO)8敗1分けであり、俄(にわか)ファンから見れば、たいした戦績ではなく、早い回で赤井が倒してしまうだろうと高を括(くく)っていたのである。
確かに戦績数字だけを見れば鳴かず飛ばずの選手に見えても仕方のないことだった。
それでも、KO率の高さには特質すべきものはあったのだが、関西のボクシングファンは「弱い相手との対戦の飾り物」でしかない数字だと見下し、掻き消していた。

大和田選手の戦歴を見ると1979年6月28日J・ライト級(現S・フェザー)のデビュー戦から2連敗しての散々なスタートとなった。
その後は、眠りから覚めた様に5戦5勝4KOと勝ち続けた。しかし、1980年12月18日、東日本新人王戦は決勝まで行ったものの新山泰次郎(八戸協栄)に6回KO負けで新人王ならず。

その後も引き分けを挟んで連敗したかと思えば、連勝しては連敗の繰り返しだった。

勝っても負けても殆どの試合がKOで決着する大和田のスリリングな戦い方に、人気も出始めていた。
当時のボクシング専門誌の解説文によると『大和田選手はこのJ・ライト級での階級では体格からして減量は厳しいだろう。確かに顎が弱いこともあるが、減量に苦しんだ結果がスタミナ切れでガードが甘くなる。動きが鈍ったところで顔面に集中連打されることで負けに繋がり、それが浮き沈みの原因となっている。大和田は何階級か上げてもあの左右フックの強打は通用する筈で、階級を上げたほうが望ましい!』と指摘した評論家もいた程だった。

そして、指摘されたように階級を徐々に上げていった。
1984年9月17日、J・ウェルター級クラスの契約ウェイトでの試合で戦うことになり、当時アマチュア時代に赤井英和を倒した男として売り出していた野村勝英(ワタナベ)との対戦となった。
この野村はプロになって5戦5勝5KOのハードパンチャーとして将来を嘱望されていたのである。
しかし、大和田はこの野村に2度のダウンを与えて、一瞬反撃に遭うが畳み掛けて、僅か1回1分17秒のKO勝ちで野村を退けたのだった。
この試合後に、大和田の強烈な左右連打を顔に受けた野村は「頬骨陥没骨折」と診断されて引退を余儀なくされている。※(上の3枚の写真)

大和田は野村戦に勝って、昇り調子のモチベーションを維持したまま大阪登場となったのである。
前述のように大阪のファンにしてみれば、当時、所謂「噛ませ犬」としか見ていなかったようである。

そして、待ちに待った赤井英和 対 大和田正春戦の大阪府立体育会館は満員で埋まっていた。

‥‥‥‥其の2へ続く

【写真・金沢興一/ボクシングマガジン/Wikipedia〜参照】

| | トラックバック (0)

« 2010年1月17日 - 2010年1月23日 | トップページ | 2010年1月31日 - 2010年2月6日 »