日記・スポーツ

2009年11月18日 (水)

《マニー・パッキャオ5階級制覇!》11月15日・試合会場(ラスベガスMGMグランドガーデン)

《マニー・パッキャオ5階級制覇!》11月15日ラスベガスMGM
《マニー・パッキャオ5階級制覇!》11月15日ラスベガスMGM
《マニー・パッキャオ5階級制覇!》11月15日ラスベガスMGM
《マニー・パッキャオ5階級制覇!》11月15日ラスベガスMGM
《マニー・パッキャオ5階級制覇!》11月15日ラスベガスMGM
《マニー・パッキャオ5階級制覇!》11月15日ラスベガスMGM
〈WBO世界ウェルター級タイトルマッチ〉
☆王者ミゲール・コット(プエルトリコ=29)対マニー・パッキャオ(フィリピン=30)。

…試合が開始されると、初回からコットが左ジャブを出して果敢に攻める。
2回からはお互いジャブの出し合いでパッキャオが右を出してラッシュでコットも応戦。

3回に入って間もなくパッキャオの右フックがコットの顎を打ち抜きダウンを奪う。あまり効いていなかったのか難無く立ち上がりコット持ち直す。

4回の終了間際にまたもやパッキャオがロープ際に追い込んで狙い撃つように左アッパーでコット2度目のダウン。
ゴングに救われたがこのダウンでコットはかなりのダメージを負った。
5回以後はコットが動き出しアウトボクシングに戦法を変えるがパッキャオの左右強打にコットは終始逃げるような形。

終始パッキャオリードで12回までなんとか持ちこたえたコットだったが左右連打を浴びたコットを見てレフェリーは試合を止めた。
コットはなすすべもなく顔を腫らして完敗に終わってしまった。
パッキャオの12回55秒TKO勝ち。
これでパッキャオの5階級制覇となり、益々名を上げた感じの試合だった。そして、この階級のスーパースターWBC世界名誉王者のフロイド・メイウェザーとの対戦話しが持ち上がって来た。

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2009年11月13日 (金)

《WBA世界ヘビー級 巨漢!ワルーエフ王座陥落!》11月7日 イギリス

《WBA世界ヘビー級タイトルマッチ/ニコライ・ワルーエフ(露)対前クルーザー級3団体王者デビッド・ヘイ(英)》11月7日
《WBA世界ヘビー級タイトルマッチ/ニコライ・ワルーエフ(露)対前クルーザー級3団体王者デビッド・ヘイ(英)》11月7日
《WBA世界ヘビー級タイトルマッチ/ニコライ・ワルーエフ(露)対前クルーザー級3団体王者デビッド・ヘイ(英)》11月7日
《WBA世界ヘビー級タイトルマッチ/ニコライ・ワルーエフ(露)対前クルーザー級3団体王者デビッド・ヘイ(英)》11月7日
《WBA世界ヘビー級タイトルマッチ/ニコライ・ワルーエフ(露)対前クルーザー級3団体王者デビッド・ヘイ(英)》11月7日

 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ、巨漢王者ニコライ・ワルーエフの身長213cmで体重145kgと3団体クルーザー級前王者デビッド・ヘイの191cmで100kgの対戦は11月7日イギリスで行われた。まるで子供と大人の身長、体重差の両選手に会場はどよめきが起きた。

前評判の高い、ヘイはクルーザー級のWBA・WBC・WBOと3団体の王者として君臨、部類のハードパンチャーで敵なしの強さで「タイソン二世」と呼ばれていて、人気急上昇中の選手だ。ニックネームは『Hayemaker=ノックアウト・パンチャー』と呼ばれている。クルーザー級王座を返上してヘビー級へステップアップして来た。

…試合が開始されると、ワルーエフは重い左ジャブでリードするとヘイは左右に動きながらワンツーを出すヒット&アウェイの戦法。そんな展開が序盤、中盤と続く。


〜8回には、あまりの身長差でヘイは跳び上がる状態で左フックをヒット。ワルーエフはのけ反る状態に。

そんな展開が11回まで続き、ややクリーンヒットの多いヘイがリードして結局フルラウンドまで突入。

見せ場は、最終ラウンドの終了間際にヘイの左フックがワルーエフの顎にヒットして、もんどりうってグラついた。ワルーエフは倒れる寸前だったが、なんとか持ちこたえてゴングに救われた感じだった。

12回フルラウンドの採点は一人のジヤッジが(114対114)でドロー。二人のジヤッジは(116対112)(116対112)でヘイの勝ちを支持。2対0で勝利して、ヘイがWBAのヘビー級新王者となった。デビッド・ヘイの戦績24戦23勝(21KO)1敗。ニコライ・ワルーエフの53戦50勝(34KO)2敗1無効試合。
…現在のヘビー級はIBF・WBOの2団体王者ウラジミール・クリチコ(ウクライナ)とWBC王者ビタリィ・クリチコの兄弟が支配している。ここ数年のヘビー級はロシアや旧ソ連圏の選手が目立ち、久々のそれ以外からの新王者デビッド・ヘイに期待されている。

〈写真WOWOWより〉

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2009年10月14日 (水)

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「マルシアーノよ永遠なれ!」

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…最終章〜「永遠なれ!」
☆ロッキー・マルシアーノは引退して13年の歳月が流れていた。
相変わらずボクシングの解説や講演会などで活躍しながら暇をみては、プロアマ問わずボクシングのレフェリー役を買って出たりして後進の指導にも携わっていた。

1969年8月31日、その日はアイオワ州のボクシング界貢献者表彰式と現役時代の後援者のパーティーに招かれてボクシング談義に沸いたのだった。宴も終り、次の予定地の隣接するイリノイ州シカゴへと移動することになった。翌日にはテレビコマーシャルに出ていた石油会社社長の計らいでマルシアーノの誕生パーティーを開いてくれることになっていた。妻のバーバラと娘のマリアンもシカゴで待ち受けている。

アイオワ州ジャスパー郡の田舎にある単発機専用飛行場に着くと、ドシャ降りの雨が降っていて悪天候であった。視界は悪かったが様子を見て小型セスナ機を飛ばすことになった。そして、若いパイロットと友人と共に搭乗する。
…離陸して数分後、飛行場の管制室からセスナ機に飛行状況確認の無線を取っていたが“視界不良”の連絡の後、途中から突然連絡が不能になった。何度呼びかけても応答しない。悪天候で夕方だけに管制室には不安がよぎった。最悪の事態である。心配になった係員はただちに救助隊に連絡をとった。

不安は的中した。その夜になって農場主から警察へ連絡が入った。飛行場から数キロの地点だった。墜落した小型機がジャスパー郡ニュートン村「ヘンリー・アイランダー農場」のトウモロコシ畑にある立ち木に激突して大破しているのが発見された。
その状況からすれば生存は到底無理であった。そして、搭乗していたマルシアーノ、友人、パイロットの3人は救助隊によって死亡が確認された。〜パイロットの壊れた腕時計は午後8時50分を指していたと当時の新聞に記されている。

マルシアーノは翌日に46歳の誕生日を迎えるはずであった。
シカゴで待ち受けていた妻子や友人達もマルシアーノの突然の死に動揺し、哀しみに暮れるしかなかった。

翌日には『ロッキー・マルシアーノ〜セスナ機墜落事故死!』のニュースは全米はもとより世界中に発信されている。
何故、どうして悪天候にもかかわらずセスナ機は飛んだのか?マルシアーノの強い要望があっての運航だったのかどうか定かではなく、何処にも記されてはいない。

〜それから5年後、妻のバーバラも病に倒れて、後を追うように46歳の若さで病死した。父親のピエリノ・マルケジャーノは1972年3月に亡くなったが、母親のパスカリーナは長命であった。1986年1月に亡くなるまで毎朝マルシアーノの写真の前で祈りを捧げたと云われる。兄弟はそれぞれ各州で暮らしていて、その後のマルシアーノの出版物やサイトなどを管理して世界中のファンの為に配信している。

ロッキー・マルシアーノは亡くなって40年経っても『懐かしき思い出のボクサー選出!』などのボクシング誌では常に人気のトップテンに入っている。人物像もボクシング誌やあらゆる書籍で紹介された。その人気は戦績ばかりではなく人柄によるところが大きい。特に、現役時代も引退後も恵まれない子供達の施設支援をしたり、老人ホーム建設などのチャリティーを募ったりした。それは、マルシアーノ自身が幼少の頃、家庭が貧しく恵まれなかったところから来ている。

そして、『もう戦う相手はいなくなった!』の名セリフはあまりにも有名であり、『ブロックトンの高性能爆弾』は数々の名試合を展開し、ロッキー・マルシアーノと云う無敗王者の名前は“永遠に”語り継がれるだろう。〜現在フロリダ州の墓地に眠っている。

【生涯戦績】
アマチュア戦績〜33戦30勝3敗。

プロ戦績〜49戦49勝(43KO)無敗。
1952年9月23日 NBA世界ヘビー級王座獲得。(後のWBA)
1956年4月27日に引退するまで6度防衛。

―――――――――☆END

【Rocky Marciano official website&BoXRec〜抜粋・参照】

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2009年10月 4日 (日)

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の8〜「復帰話し!」

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の8〜「復帰話し!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の8〜「復帰話し!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の8〜「復帰話し!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の8〜「復帰話し!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の8〜「復帰話し!」
…ロッキー・マルシアーノは引退しても引く手あまたの人気者だった。本の執筆から雑誌インタビュー、TVショー出演、スポーツコメンテーター、講演など現役時代よりも忙しい毎日を送っていた。

1956年11月30日、マルシアーノが引退して王座が空位となっていた為に王座決定戦が行われた。

弱冠21才のフロイド・パターソンとマルシアーノとの死闘を演じた老練42才のアーチー・ムーアだった。試合は呆気なくパターソンが5回KO勝ちで新チャンピオンとなった。21才11カ月の史上最年少王者(当時)が誕生する。(20才5カ月のマイク・タイソン出現まで30年間も破られなかった)
その後パターソンは4度の防衛を重ねて行く。
〜そして、月日が流れ、2年半前に引退したマルシアーノに“復帰話し”が持ち上がる。

その対戦相手として持ち上がったのが王者フロイド・パターソンだった。
話しはあくまでもパターソンが5度目の防衛を果たす事が条件であったが対戦契約までは進んでいなかった。

それでもマルシアーノは試合の解説をしていて血が騒いだのか、35才になっていたが乗り気で練習を開始する。

しかし、1959年6月26日パターソンはヘルシンキオリンピックの銀メダリストからプロに転向したEBU欧州王者のインゲマール・ヨハンソン(スウェーデン)に3回TKO負けしてマルシアーノの復帰戦は夢と破れ白紙となった。結局ベルトは北欧へと渡ってしまったのである。

その後もマルシアーノに復帰話しは持ち上がったが、進展するまでには至らず、二度とリングに上がることはなかった。

そして、また元の生活に戻っていった。


―――――其の9へ続く!

【charley Goldman Wikipedia&BoXRec〜抜粋・参照】

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2009年9月30日 (水)

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の7〜「引退発表!」

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》其の7〜「引退発表!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》其の7〜「引退発表!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》其の7〜「引退発表!」
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》其の7〜「引退発表!」

 ロッキー・マルシアーノはアーチー・ムーアとの激戦を終えて、7カ月が過ぎていた。

ある日、ボクシング関係者以外の信頼ある友人にだけ打ち明けている。〜「背中から腕にかけて痛みが走る!もう、俺の体は“がた”が来ているみたいだ?」

激闘の末の疲労蓄積が、そう言わせたのかも知れなかった。
当時のマルシアーノの年間試合数を遡ってみた。

…'47年〜 1試合(1KO)☆デビュー戦!
…'48年〜11 〃(11KO)
…'49年〜13 〃(11KO)
…'50年〜 6 〃(4KO)
…'51年〜 7 〃(6KO)
…'52年〜 5 〃(5KO)
【NBA世界ヘビー級王座獲得】
…'53年〜 2 試合(2KO)☆防衛=2
…'54年〜 2 〃(1KO)☆防衛=2
…'55年〜 2 〃(2KO)☆防衛=2
〜【49戦全勝(43KO)無敗】
デビューして3年も満たない間に、25試合もの数をこなす過密試合だった。当時、まだ若かったとは言え、現在では考えられない数字である。 後半、試合は減ったが、稀に見る熾烈な戦いで体を傷めていたことは事実だったろう。
 
《引退発表》1956年4月27日、ニューヨーク・タイムズ社の一室に記者会見の場が設けられた。
マルシアーノが登場するとフラッシュが一斉に焚かれる。
 
そして、マイクの前でマルシアーノはゆっくりと語り出した。
『皆さん、集まってくれてありがとう!そして、応援してくれたファン、スポンサー、また僕を育ててくれたトレーナーやマネージャーのみんな心からありがとうと言いたい!4年間チャンピオンでいられたことを誇りに思っている。僕の身勝手だが、本日を持って、“引退”することを決心した!』
…記者が質問した:『どうして、今日引退ですか?まだ戦えるでしょう?』
 
『いや!“もうこれ以上戦う相手がいなくなったので、リングを降りることにした!”もうすべてを全うした思いで悔いはない!〜改めて全ての皆さん、本当にありがとう!』
 
記者会見の模様はラジオやテレビで全米に放送された。
 
マルシアーノは友人に話した体の不調は本当に重いものだったのだろうか?
引退発表では一言も触れていなかった。真相は不明のままである。ただ、マルシアーノは体調不良が理由で辞めることはプライドが許さなかったのかも知れない。〜そして、9年間のボクシング人生にピリオドを打って32才でグローブを置いた。
 
―――――其の8に続く!
 
【Rocky Marciano official website & BoXRec〜抜粋・参照】

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2009年9月27日 (日)

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6〜「練習の虫!」

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の6
☆前回、記したようにロッキー・マルシアーノはこの試合でアーチー・ムーアの右アッパーを貰って、2回にプロ2度目のダウンを喫した。
これまでの記録を見ると、他の試合でも劣勢から挽回して倒すという展開が数試合あった。

…54年も前の映像を見る限り、現在のスタイルと比べればスピードとテクニックがかなり違うように見えて、格差があるようにも見える。
しかし、現在の選手達は環境も変わり練習を科学的に分析したり、科学的食事法を摂ったりして体をつくり、半世紀以上も違えばスピードとテクニックは進歩して当然だと思うのだ。

マルシアーノは“練習の虫”だったらしい。
ひたむきに走り込みに力を入れ、(シャドー・マスボクシング・スパーリング)と、全てに力を抜くことはなかった。
世界王者になって初防衛戦が決まると、とてつもない練習量に驚かされる。
5カ月間の練習期間は、特に3カ月間を走り込みに集中して250マイル(約402km)も走った。多い時には1カ月に100マイル(約160km)も走破したと言う。そして、スパーリングを225ラウンドもこなしている。まさに怪物だったのだ。
ジャーシー・ジョー・ウォルコットやアーチー・ムーアに倒されて逆転するスタミナ源は、やはり練習量によるものだろう。ちゃんと裏打ちされた根拠がそこにあった。
54年も前の映像を見て、単に力まかせに殴り合っているように見えるが、そうではないと云うことが分かる。

マルシアーノはある時、「どうしてあんな逆転が出来るんですか?」の新聞記者のインタビューに、こう応えた「そこは、練習でわざと打たせて鍛練してるんだ!だからリングで出せるのサ!1分間に2、3回は相手の隙が見える。そこを攻めるだけさ!体が勝手に反応するようになったからね!…」

マルシアーノは厳しく辛い練習によって逆転劇を生む源になったことを試合で示したのである。

…そして、この試合が終わって、ヤンキー・スタジアムで観戦していたイタリアンは「これで私達もマルシアーノのおかげで、やっとアメリカ人になった!」と誇らしげに話すのだった。

―――――其の7に続く!
【PHOTO-Time&Life Pictues&Estate of Rocky Marciano〜抜粋・参照】

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2009年9月23日 (水)

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4〜「王者の道!」

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の4
☆1952年9月23日、ジャーシー・ジョー・ウォルコットとの歴史に遺る大逆転KO劇で王座を獲得したロッキー・マルシアーノは、初防衛戦に向けて練習を開始した。


…ロードワークを4カ月間に200マイル(約321キロ)も走り込みを続け、スパーリングを225ラウンド消化した。オーバーワークとも取れるハードな練習だった。リマッチを交わしている老練の前王者ウォルコットも返り咲きを狙って、必死に研究して来るに違いなかった。なにしろ前回ウォルコットの左フックで初回にダウンを奪われて、悪夢で始まった前試合を払拭したかったのだ。マルシアーノにとって7カ月間の空白期間はプロになって2回目の長期空白でもある。(※デビューの'47年〜'48年は1年以上の空白があるが野球のトライアウトに参加していて、ボクシングを休止している!)
当初、1953年4月10日(※上記写真チケット)シカゴ・スタジアムでの試合が決定してチケット発売されたのだったが中止となっている。(悪天候の他にウォルコットの故障も含めてと記されている。)その後、改めて1953年5月15日に決定した。


…その日がやって来た。シカゴ・スタジアムに16,034人の観衆が詰めかけた。前回のスリリングな両者の対決にボクシング人気も沸騰していた。


開始ゴングが鳴った。


ウォルコットは前試合のように左フックを武器に挑むのだったが、マルシアーノの動きが良く、逆に序盤からマルシアーノが優位に出る。2分過ぎるとマルシアーノの強烈な左右フック連打でウォルコットはリングに崩れ落ちるように〜“ダウン”。立ち上がれず〜カウントアウト!わずか1回2分25秒でのマルシアーノのKO勝ち。呆気なく終わってしまった。余りにも早い一方的な決着に観衆のどよめきが起こったのだった。〜この後、39才のジャーシー・ジョー・ウォルコットは22年間の選手生活にピリオドを打った。

初防衛に成功したマルシアーノは44勝(39KO)無敗と連勝街道は、更に続いて行った。

―――1953年9月24日、ローランド・ラスターザに11回TKO勝ち。(ニューヨーク)

―――1954年6月17日、イザード・チャールズに15回判定勝ち。(ニューヨーク)

―――1954年9月17日、イザード・チャールズに8回KO勝ち。(ニューヨーク)

―――1955年5月16日、ドン・クックルに9回KO勝ち。(サンフランシスコ)

マルシアーノは5度目の防衛を果たして“王者への道のり”をつくって突っ走る。
そして、大ベテランの強敵アーチー・ムーアとの対戦が決定した。

―――――其の5へ続く!

【Rocky Marciano official website&BoxRec〜抜粋・参照】

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2009年9月 3日 (木)

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1

《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1
《☆伝説のボクサー!ロッキー・マルシアーノ》…其の1
☆「ロッキー・マルシアーノ」はイタリア系アメリカ人のボクシング世界ヘビー級王者。
(本名=ロッコ・フランシス・マルケジャーノ)

☆ロッキーと言えば、米国俳優シルベスター・スタローン主演映画『ロッキー』の題材になったことで有名である。
同じイタリア系アメリカ人であるスタローンがまだ無名だった頃、1975年モハメド・アリ対チヤック・ウェプナーの試合を観て感動しロッキー・マルシアーノと重ね合わせて、スタローン自ら脚本を書き上げたと言われる。
この映画のスタローン扮するロッキー・バルボア役はモハメド・アリに15R逆転KO負けしたチヤック・ウェプナーをロッキー・マルシアーノに見立てて脚本を書いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
… イタリアからの移民者であるマルシアーノの父親は小さいながらも細々と靴店を営む腕のいい職人であった。そんな家庭の両親のもと1923年9月1日マサチューセッツ州ブロックトンに、長男として誕生する。
幼少時代の呼び名は「ロッコ」のニックネームで通った。この頃は野球が好きで、学校から帰ると街の仲間達と野球に没頭する毎日。将来はプロ野球選手になることを夢見ていたのであった。
マルシアーノが小学生になった頃は、世界大恐慌の時代。そのあおりで父親の店も、ままならず生活も苦しく、父親は製靴工場へと働きに出た。
おまけに次々と兄弟が誕生する。そして、16歳の時には高校も休学して家族を助ける為に、父親の働く同じ製靴工場に働きに出たと云われる。
最終的には男4人女2人の6人兄弟となる大家族であった。そして、高校を中退して兵役に従事することになった。
その頃は、第二次世界大戦の終戦を迎えようとしていた時期、イギリスへの従軍を余儀なくされた。その従軍先の時代に、連合国のオーストラリア軍兵士との喧嘩をきっかけに、アマチュアボクシングを始めたのだった。3年後に兵役を除隊すると、皿洗いから始まり、倉庫の荷出しや、ガス会社配管工などありとあらゆる仕事を転々と重ねていく。
そして、その頃、プロ野球選手になる夢もあってシカゴ・カブスのファームへのトライアウトも3年間経験したが、結局閉ざされてしまう。
それと並行してアマチュアボクシングの(全米ゴールデン・グローブ大会)にも出場して33戦30勝3敗の戦績を残している。この頃、全米のオリンピック代表を選出するトーナメントに出場したが、いがいにも予選1回戦で敗退したことは、あまり知られていない。

…プロ野球選手を諦めて、再び街工場で働きだした頃のある日、ふとした仲間の喧嘩に巻き込まれて仲間を助けようと喧嘩の発端者を殴ってしまい気絶させてしまう。その相手はマサチューセッツ州の元アマチュアボクシングチャンピオンだったのだ。この時から仲間にプロボクサーになることを勧められ、一時は諦めていたボクシングに改めて目覚めて行く。
そして、プロボクサーを目指す気持ちも強くなっていき、仕事をしながら街のジムにも通い出すのだった。時には町工場の片隅で開かれる駆け出し無名ボクサー達による賞金付きボクシング大会(Semipro)にも出場して、小銭を稼ぎながら技術を磨いていった。 また、この頃は、兄弟達の学費も稼がなくてはならない役目も背負っていた。

マルシアーノはその頃、米国民の英雄的存在(1938年対ドイツ人世界ヘビー級王者マックス・シュメリングとの名勝負)だったジョー・ルイスの試合を見て「〜俺もああ云う選手にならなければ、ボクシングをやる意味がない!」と憧れとともに自らを奮い立たせていった。
23歳になっての遅いプロデビューは、プロ野球のトライアウトに熱中していたことや、家庭の事情で仕方のないことだった。
…1947年3月17日、マルシアーノのプロデビュー戦は現在のL・ヘビー級(79、38kg)クラスの体重しかなく対戦時にあえて体重増量に励んだが80kgそこそこだったとされる。
(注)【※現在の規定、ヘビー級90、7kg以上は体重が違っていても試合は認定されるが、それ以外はクラスの規定範囲内の体重でなければ試合は認定されない。又は契約体重にしてその範囲内で行う】
マルシアーノとしては、一番重いクラスで戦いたかったのだったが、相手は3kg以上も差があったとされている。それでも、リー・エファーソンをアッサリと3回でのKO勝ち。幸先よいスタートとなった。

【当時は、階級はあっても厳密な規定はなく両者陣営で承諾すれば試合は成立した!】
マルシアーノがデビュー戦に勝ったのは当然と言えた。高校時代に野球とアメフトで体を鍛え上げ、そのうえアマチュアで33戦して、セミプロでも10数戦の経験があったからだった。その後、プロでも充分活躍出来ると見ていたトレーナーに就いたチャーリー・ゴールドマンから本名が長すぎると云うことを指摘された。リングネームは最初に「ロッキー・マック」と付けられて、「ロッキー」は納得したが、「マック」と云う名に馴染めず。次にゴールドマンが「マルケジャーノだからマルシアーノではどうだ?」と問うと納得したのだった。結局「ロッキー・マルシアーノ」と改名したのである。
その後、トレーナーのチャーリー・ゴールドマンが雑誌インタビューで「リングネームはスペルのロッコが似ていることで、雄大なロッキー山脈のように大きく育つようにと付けたんだ!」と説明している。
当時、既にデビューして人気のあったミドル級のロッキー・グラジアーノ(同じイタリア系アメリカ人)の「引用では?」の問いに「いや、それは全く関係ない!たまたまロッキーがもう一人いたと云うことだ!決して真似た訳ではない!グラジアーノや関係者にも説明して了解して貰った!」と説明している。
※(同じロッキーでもマルシアーノは雄大なロッキー山脈で、グラジアーノは石の拳とリングネームの意味を区別している)

マルシアーノはその後、連戦連勝を重ねて5年の歳月が流れ28歳になっていた。階級も一番重いヘビー級に落ち着いていたが、当時でも体格は180cm・83kgと小さく、殆どの対戦相手がこれを上回っていた。
しかしながら、並み居る大男達を薙ぎ倒し37連勝(32KO)無敗と負け知らずである。
やがて、米国中の評判になり人気上昇中だったマルシアーノにマッチメーカーやプロモーターから白羽の矢が向けらた。
〜そして、大一番の話しが舞い込んだのだった。尊敬と憧れでもあったジョー・ルイスからの対戦オファーである。マルシアーノは驚きと戸惑いを覚えて考え込んだ。

…ジョー・ルイスはこの時、既に25回の防衛を重ねて年齢も37歳となっていた。1948年6月25日ジャーシー・ジョー・ウォルコットと対戦して25回目の防衛を果たすと王座を返上して引退していた。しかし、その後ルイスは借金を背負ったことで復帰して王座返り咲きを狙う。
1950年、当時ルイスが返上して空位となったNBAヘビー級王座を獲得したイザード・チャールズに挑戦したのだったが、以前のように体が動かず、15回判定負けして返り咲きならず、無冠となっていた。

当初、マルシアーノはこの対戦に前向きではなかったと言う。願ってもないオファーにマネージャーのジミー・オキーフやトレーナーのチャリー・ゴールドマンが説得したのだった。
考え直したマルシアーノは尊敬するジョー・ルイスであっても、お互いプロである以上オファーを蹴る訳にはいかなかったのだ。
心の中で「尊敬」が邪魔をしていただけで、このチャンスを断る理由もなかった。ましてや、イタリア移民の子として世間には蔑(さげす)みの目で見られ、差別も受けていたことで決心した。「俺にはイタリアの血が流れている。移民者の為にも、もう逃げる訳にはいかない。今しかないんだ!」と云う思いを肩に背負う。マルシアーノは感動するいい試合をして観客に米国民として認めて貰うと云う思いがあったのだ。

…それから数日後にマルシアーノは対戦契約書にサインをした。書面には『王座挑戦決定10回戦。勝利者が王座挑戦の権利獲得!』と記されていた。

…1951年10月26日、ついにその日がやって来た。ジョー・ルイス対ロッキー・マルシアーノのチケットはノンタイトル戦にもかかわらず、飛ぶように売れてダフ屋も出没して、あっと云う間に売切れた。
そして、ニューヨーク・マディソンスクェアガーデンの会場は超満員に膨れ上がったのだった。


―――――其の2に続く

【Estate of Rocky Marciano〜より参照】

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2009年9月 1日 (火)

…日本S・フライ級王者・中広大悟(広島三栄)対(同級7位)本田秀伸(グリーンツダ)…8月29日(会場)広島三次市カルチャーセンター

…日本S・フライ級王者・中広大悟(広島三栄)対(同級7位)本田秀伸(グリーンツダ)…8月29日(会場)広島三次市カルチャーセンター…日本S・フライ級王者・中広大悟(広島三栄)対(同級7位)本田秀伸(グリーンツダ)…8月29日(会場)広島三次市カルチャーセンター…日本S・フライ級王者・中広大悟(広島三栄)対(同級7位)本田秀伸(グリーンツダ)…8月29日(会場)広島三次市カルチャーセンター ☆当初、対戦相手がなかなか決まらず途方にくれていた日本S・フライ級王者の中広選手だったが、ベテランの本田選手が名乗り出たことで解決した。

試合会場は出身地の地元での凱旋試合と云うこととなった。

挑戦者の本田選手は9月に34歳となる大ベテランで試合数も38戦目。もうとっくに峠を過ぎた選手と見られがちだが戦歴は凄いのだ。
'02年11月6日、WBC世界フライ級王者ポンサクレック・クラティンデーンジム(タイ)と対戦して12回判定負けしたが本田選手の防御面では称賛された。
'03年10月4日、WBA世界S・フライ級王者のアレクサンドル・ムニョス(ベネズエラ)との対戦はデビュー以来23連勝中のKOキングと言われたムニョスに12回判定負けしたものの連続KOをストップさせた防御技量はやはり絶賛された。その後'06年10月29日、後のWBA世界フライ王者になる前の名城信男(六島)とも対戦している。この試合も10回判定負けしているがやはり名城選手が思うようにいかず8回の本田選手の猛攻には名城も苦戦した。この試合の勝利によって名城選手は世界ランク入りとなった。
いずれも負け試合ではあるが中広選手にとっては、いいお手本試合である。

…試合が始まると、初回にいきなり中広の右ストレートが本田の顔面にヒットしてダウンを奪う。しかし、この勢いのまま早い回で終るかに思われたが本田は持ち直した。
中盤に入って本田の持ち前のアウトボクシングに中広がてこずった。

見せ場は7回中広の右フックがヒットして本田が劣勢に。8回には右ボディーを打ち込み中広がポイントを上げた。

結局、本田選手の粘り強い試合運びもあって10回まで戦う展開になった。判定は(97対93)(96対95)1人のジャツジが(95対95)と分けての2対0と言う試合内容だった。中広選手にとっては2度目の防衛となったが本田選手の得意な防御にてこずる試合だった。中広選手の勝利インタビューでは「こんな勝ち方では、世界はまだまだ無理です!」との応えだった。
〈後記〉私は中広選手の試合を後楽園ホールで観ているがまだ伸びしろはあるように見えた。ただプロとして派手さがない分で見劣りするが練習次第で技術アップすればもっと素晴らしい選手に育つ筈。今後の試合に期待したい。

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…石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!…8月30日(会場)大阪府立体育会館第1競技場

…石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!…
…石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!……石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!……石田順裕選手(金沢)完勝で暫定王座獲得!…
☆ WBA世界S・ウェルター級暫定王座決定戦が何故?4位と5位で行うのかに疑問が上がったが、ことの発端は王者のダニエル・サントス(プエルトリコ)が怪我を理由に1年以上も試合を行っていないことから暫定王座を設けることとなった。そして更に1位〜3位までの選手が決定戦に出場拒否をしたために石田順裕選手とマルコ・アベンダーニョにチャンスが巡って来たと云うことだ。

このクラス日本人にとっては重量級になる。過去世界王者は三原正(三迫)、輪島功一(三迫)、工藤政志(熊谷)と3人がいる。
…試合は石田が序盤から左ジャブでリードして流れをつくった。中盤から後半にかけても終始リード。アベンダーニョは手数では上回ったが大振りで空振りが目立った。石田は手数は少なかったが左ジャブが冴えて有効打も多かった。そして、12回を戦い抜き6、8、10ポイント差3対0の判定勝ちで見事に暫定王座を獲得した。34歳の王座獲得は史上2位の高齢だった。

☆ セミファイナルのWBA世界フライ級11位・亀田大毅(亀田)はホセ・アルベルト・クアドロス(メキシコ)と対戦して左右フックの連打で畳み掛けて4回30秒のKO勝ち。

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